ご来訪いただき、誠にありがとうございます。私どもは西安(昔の長安)出身、中国金橋国際観光旅行会社西安支社の日本語観光ガイドです。私どもが生まれ育った“悠久の歴史を持つ古都長安”を皆さんにもっと広く深くご紹介するために、この観光旅行ホームページを作成致しました。基本観光ルート、観光コースをはじめ、さまざまな時代テーマや人物テーマ、観光スポット情報など、各方面からお客様のニーズに合ったご紹介することを目標にして頑張っております。お客様の要望に沿ったアレンジも致しますので、詳しくはお気軽にお問い合わせ下さい! 西安日本語観光ガイドたちのメールアドレス:xiaojunn@gmail.com
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隠れている中国密境三国志故地 漢中 new |
西安の概況 西安市は中国の西に位置します、悠久の歴史を持つ近代的な大都会である。黄河<黄色い川>流域の関中<関所の真ん中>平野の中部にある西安<昔の長安>は南に秦嶺山脈、北に胃水が流れ、気候が季節風のため、温帯の半湿潤性のものである。季節がはっきりしており、温和の気候に恵まれている長安は、年間平気気温は13度で、寒い冬以外のシーズンはすべて観光に適している。 西安は古くは長安といわれ、シルクロードの起点であって、イタリアのローマ、ギリシアのアテネ、トルコのイスタンブルとともに世界四大古都と称されている。 西安はすでに3100年あまりの歴史があり、周、秦、漢、唐など13の歴代の王朝がここに都を定め、その歴史が計1100年もある。周、秦、漢、唐の時代には、西安は中国の政治、文化、そして対外の交流の中心であった。漢唐時代の長安城は、東洋と西洋を結びつけるシルクロードの起点となり、各地からの賓客がここに雲集し、まさに万方幅輳の国際的な大都会であった。「東に長安、西にローマ」との言い伝えが世界の歴史における西安の役割を評価するもとっもふさわしいものである。 この生き生きと活力に富んだ都は、輝かしい歴史と数多くの文化遺産を誇り、さらに整備されつつある都会のインフラ、ハイテクな情報サービス機能など、日進月歩に発展する近代的な大都会の姿と未来像を世界に示している。100以上の国内国際航空ラインを持つ西安国際空港は、西安を中心とする「米」字形の光ファイバーをもとに、マイクロ波や衛星通信、コンピューターなど公衆情報の地域ネットワークが型作られ、国際社会との情報交換に一層便宜を図ったのである。西安の科学教育における優位をさらに発揮させるハイテク技術産業開発区など近代化産業地帯の建設や林立する高級渉外ホテル、健康で多彩なレクリエーション、観光グッズなど品品を揃える快適なショッピングセンター、国の内外で好評されるグルメなど、国内外の観光客を魅了している |
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お客様よりの声
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鐘楼 は西安市内の中心にあります。ここを起点として東西南北に四つの大通りが伸び、それぞれ四つの城門に通じています。この四つの大通りが市内の交通網の基軸と なっています。 鐘楼は正方形の木造建築で、高さ36m、敷地1377平方m、高さ8mの煉瓦造りの土台の上に立っています。 昔、時を告げるため、明の洪武十七年(1384年)に造られました。もとは広済街にありましたが1582年に今の所に移りました。塔の上にかつて、大きな鐘が吊るされていました。鐘は毎朝70回撞かれ、鐘を撞き終わって から東西南北にある四つの城門がそれぞれ開けられたと言われます。 今、鐘楼の鐘の音は録音されており、毎朝市民に時刻を告げています。鐘楼は外から見れば華麗な三階建てですが、実は軒が三層、建築は二層です。楼の四方にアーチ型の通路があり、楼の中に階段もあります。天井には綺麗な花 の模様が描かれています。四方の門の人物像にはそれぞれ面白い来歴があります。この壮観な建物の造営のには釘が一本も使われていません。鐘楼は清代の乾隆五年(1740年)に修理されました。また、1953年7月から1954年6月にかけて全面的な大修理が行われ、ペンキも塗り直され、 現在の姿は全く昔日と同じです。楼上からは市内の街並を一望できます。安市鐘鼓楼広場 電話:029−7214665 開門時間:夏季8:00−19:00 冬8:30−18:00 入場料:20元 目次へ |
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『西遊記』ゆかりの大雁塔 各王朝 が都を定めた長安、その長安で古都の雰囲気を演出しているもののひとつに大雁塔があります。塔は現在の西安の東南郊外慈恩寺境内にあります。 慈恩寺は648年、唐の第三代皇帝高宗李治が亡くなった母、文徳皇后の慈恩を追慕して建立した寺で、高宗の皇太子時代に立てられました。当時の慈恩寺は 僧房1897室、僧侶300人が集まっていました。しかし、唐代末期、戦乱のため焼き払われ、今の大きさは昔の十分の一に過ぎません。 現在の境内にある当時の建物は大雁塔だけですが、塔の前方には明代と清代の建物が残っています。その講堂の中に金色の阿弥陀仏と昔の仏座が展示されてい ます。講堂前の大雄殿には釈迦如来の三身仏と十八羅漢があります。これらの仏像は明代のもので、後年、鍍金したり、塗装して現在に至っています。塔の東南 に明、清代の慈恩寺歴代住職の舎利塔が八基あります。庭園には鐘楼と鼓楼があり、その中にそれぞれ大きな鐘と太鼓が掛けられています。 シルクロードを通って西域128ヶ国を歴訪し、インドでの遊学を終えて、多くの経典と仏像を長安に持ち帰った『西遊記』ゆかりの唐代の高僧、玄奘(三蔵)法師は慈恩寺をすばらしい寺と して、この寺の境内に塔を建立して、仏像と経典を保存したいということを高宗に願い出ました。高宗は『西遊記』ゆかりの唐代高僧、玄奘(三蔵)法師の願いを適え、玄奘(三蔵)法師の建議によってインドの塔婆を 真似て、五層の塔を建てました。これは652年のことでした。この塔に使用された材料は煉瓦、石灰、土、餅米で、内部を土で築き、外面に煉瓦を積みまし た。塔が一日でも早く出来あがるように、玄奘(三蔵)法師は毎日、朝早くから夜遅くまで煉瓦などの材料を籠で背負って運搬したと伝えられます。 塔が竣功してから、玄奘(三蔵)法師の持ち返った仏像などがその中に安置されました。そして、玄奘(三蔵)法師は慈恩寺を翻訳経院とし、経典の翻訳を約11年間に亙って続けました。 大雁塔は則天武后の長安年間(701−704)に大改造を行って十層になりましたが、その後の戦乱などで七層から上が崩壊してしまいました。 現在の塔は煉瓦造りの七層で、高さ64m、中に螺旋階段があり、階段は碑と漸く擦れ違うことができるほどの幅ですが、最上階まで登ることができます。ま た、各層には正確に東西南北の四方に窓が開いています。 塔の南入口の左右の龕には唐第二代皇帝太宗の「大塔三蔵聖教序」の石碑と唐第三代皇帝高宗の「大塔三蔵聖教序記」の石碑があります。碑文の内容は玄奘(三蔵)法師の苦労を称えたものです。 唐の下部の東西南北側にそれぞれ石門の上に横木が一本ずつあります。南の石門の横木を潜ると、中央広間の回廊の南側の石碑の上に科挙の合格者の名前と出 身地が刻まれています。他の石門の横木にはそれぞれ精巧な線刻の仏像と天王像があります。特に西側の石門の横木に陰刻した釈迦説法図と殿堂図は圧巻です。 五門単層四注造りの仏殿が拓本取りで真っ黒になっていますが、陰刻された鴟尾や屋根などの状況は鮮明です。この仏殿図は日本の奈良?平安時代の木造建築 の原形となっただけでなく、中国建築市場でも唐代の建築様式、絵画、彫刻芸術を伝える重要な文化財です。 大雁塔はすでに1300年の歴史があり、その間、震度7以上の地震に度見舞われていますが、昔日の雄姿のままに重厚な姿を見せています。 住所: 西安市南郊大慈恩寺内 電話:029−5257958、開門時間:8:00−17:00 入場料:25元、塔内20元 目次へ |
西安城壁は紀元1374年から1378年にかけて築かれた西安城壁は長方形を成し、周囲11.9Km、高さ12m、上部の幅は 12〜14m位、中身は土、表面はレンガで覆われて、現存する中国の城壁の内、最も完璧なものである。東西南北にそれぞれ城楼があるが、東西だけが、二重 城楼になっている。シルクロードの起点として西門がとても有名である。昔、中国の絹はここから運び出し、西域の品々もここの門を通って中国全土に伝わっ た。今、西門の周辺には西域から移住してきた異民族の末裔が多く住んでいる。開門時間:8:00−18:00 入場料:40元 、レンタル自転車:20元(90分間)、電動カード50元(一回り) 目次へ |
西安碑林博物館は西安城南門の東にあります。碑林とは文字や図像を刻んだ多数の石碑の集合を意味します。西安碑林は昔の西安の孔子廟を基礎として1087年に建てられました。この博物館は石碑展示室、石刻展示室、臨時展示室の3つに分かれています。建築面積は約4000平方m、展示品は約3000点あります。 博物館は南北に細長く、門をくぐると木牌坊が見えます。右に折れて正面をみると東西両側に展示室が続いています。その間の遊歩道の両側に石造りの動物模様の門柱や八角円堂の碑閣が立ち並んでいます。もっと奥に進むと碑林の展示室に着きます。 まず目に入るのは碑亭の中に立っている石台孝経です。この石碑は高さ5.7m、唐の玄宗皇帝の天宝四年(745年)の自筆で、内容は孝経に関する解説で、碑額の題字は皇太子李亨(後の粛宗皇帝)の書です。碑文の中に、「身体髪膚これを父母に受く」という明言もあります。 七つの石碑展示室には大型の石碑と墓誌銘が千基ほど展示されています。展示の石碑は漢の時代から清の時代までの各時代にわたっています。石碑には歴史実録、仏教、古代の名著などが刻まれていて、石碑は当時では文化を伝える重要な手段でした。 第一展示室には高さ2mの開成石経の石碑が114基あり、碑の両面に65万252の文字が刻まれています。開成石経は唐の文宗皇帝李昴が国子監(文部大臣)鄭罩の建議により、文宗の大和四年(830年)から開成二年(837年)までに艾居梅と陳王界らによって楷書で刻まれたものです。これらの碑の完成には約七年の月日を費やしたと伝えられています。文宗の開成年代に完成したのは開成石経と名付けられました。当時の統治者は、この石経を長安城務本坊の中に置き、大学生と文士たちに勉強させました。石経とは、十三種の儒教経典の意味で、即ち、周易、尚書、儀礼、詩経、周礼、礼記、春秋左氏伝、春秋公羊伝、春秋殻梁伝、論語、孝経、爾雅、孟子のことです。刻文の内容は中国の古い封建制度の道徳の倫理で、これにしたがって官僚を養成するのが当時の支配者の目的でした。また、地理資料、民間詩歌、貴族の冠婚葬祭の制度、名人の問答談話の収録、歴史文献など、数多くの典籍の精華が網羅されています。 第二室には唐代の有名な石碑を展示しています。唐多宝感應碑は唐代の大書道家願真卿四十四歳の自筆です。碑文の内容は唐代の名僧楚金禅師により多宝塔建立の経過文で、この中に唐の玄宗皇帝が多宝塔建立にため、当時のお金で五十万銭送ったことが記載されています。 顔家廟碑は、彼の七十二才の時に自家?顔氏の家廟のために書いたもので、内容は顔家の家史の総括です。顔真卿の作品は古今を通じて、顔法字として尊重されています。 唐玄秘塔碑は唐代の有名な書道家柳公権が六十歳の時に大達法師のために揮毫した墓碑です。内容は、大達法師が唐の徳宗、順宗、憲宗皇帝から受けた厚恩について記載されています。 唐同州聖教序碑は初唐の大書道家楮遂良の自筆で、内容は玄奘三蔵法師の苦労を称賛したものです。これは晩年の彼の傑作でもあります。皇甫誕碑は、歐陽通が書いたもので、道因法師が大慈恩寺で玄奘三蔵奉仕の経典漢訳の仕事を助けたことが記されています。有名な三蔵聖教序碑もこの展示室にあります。この碑文は唐の太宗皇帝の序文で、玄奘三蔵法師がインドから持ち返った膨大な仏教経典を漢語に翻訳し、皇帝に献上したという玄奘の功績を賞賛したものです。碑文の文字は主に書聖と称賛される王義之も原拓を懐仁法師が集めたものです。また、太宗皇帝の勅命によって、民間に散在する王義之の原拓を収集し、その原拓から文章に必要な文字を一字一字選んだものです。書聖の原拓の収集には、唐の太宗の貞観二十二年(648年)から唐の高宗の咸亨三年(672年)まで、実に24年間が費やされたと言われ、【一字千金】に値するという言葉が生まれました。碑林には古代中国と外国の友好往来の史実を記載している石碑もあります。この中で、大秦景教流行中国碑は外国にも名高い石碑です。この碑を刻んだのは唐の建中二年(781年)で、もとは長安大秦寺にありました。大秦とはローマ帝国を指す中国古代の呼称で、景教とはキリスト教の一会派です。この碑文に記載された景教の教義、教規などによって、古代中国におけるキリスト教の伝播状況や国際交流、友好往来の関係が明らかになっています。特に、碑の上にはシリア文字の職名が刻まれており、古代中国と古代のシリア、入らん、ローマ、アラビア半島諸国との友好往来を研究する資料としても価値が高く、この友好往来の史実を記載した資料は古今東西にこれしか存在しません。唐広智三蔵碑の内容はインド僧不空三蔵が布教師として長安を訪れ、大興善寺で真言密教を伝授し、サンスクリット経典77部、127巻を唐語に訳経したことです。中国の宗恵果は不空三蔵に就いて密教を深く学び、また、これを日本の空海に伝授しました。これが所謂三国三大法師の関係です。この碑文は楷書で、唐代の有名な書道家徐浩の筆です。 中尼合文之那陀尼経憧碑は中国語とネパール語の古い文字が刻まれています。唐王朝と友好応対を頻繁に行ったことの記載です。不空三蔵は唐の玄宗皇帝の勅命を受けて、この碑文を唐語に翻訳したという記載もあります。 第三室から第七室までには漢、唐、宋、明、清など。各時代の有名な書道家、芸術化の名筆があり、観音菩薩像、孔子像、達磨大師像や山水風景の日、漢曹全碑はいずれも傑作です。石刻展示室はこの博物館の重要な場所です。この展示室には陜西省に散在した数多くの石刻の中の代表的な作品が転じされています。前漢から唐までの逸品は70点あり、陵墓石刻と宗教石刻の二種類に分けられます。老子、武士、ダチョウ、牛、獲物を狙う獅子、石人に引っ張られる獅子、重さ10トンの石犀、神話の西王母と東王公の石像、石棺など、多くの石像があります。特に、唐の太宗皇帝が乗用した軍馬をモデルとして彫刻した昭陵六駿は最も有名な芸術の珍品です。この六駿は唐代の大画家閻立本の絵を模写して、高さ2.5m、幅3mの石版に彫刻されています。六駿は太宗が唐王朝を樹立するため、隋の軍隊と戦い、全国を駆け巡っている時に愛用した軍馬です。したがって、それぞれに故事来歴があり、史実を反映しています。 住所:西安市三学街15号 電話:029−7210637 開放時間:夏季08:00−18:00冬季08:00−17:00 入場料:45元 目次へ |
陝西省歴史博物館は唐代の建築様式を取り入れた中国一の博物館であり収蔵品が37万点、そのうち6000点が常時展示されている。 原始社会から明の時代までの長い歴史を代表する貴重な文化財がここに集められ、一堂にして中国の5000年の歴史を巡ることができる。特に唐代の壁画展示 が人目を引く。300㎡の唐代の壁画から34枚を厳選し、公開している。いずれも中国最高のレベルに達しているこの壁画は宮廷生活や楽隊、儀杖隊、狩猟風 景などが多彩に描かれ、中国古代絵画の最も重要な遺産である 西安市小塞東路 電話:029)5254727(029)5255624FAX:(029)5262216開門時間:9:00−16:30入場料: 35元 乗車路線:601路、521路、27路市区域のバス または、701路、827路区間マイクロ型バスでいける 目次へ |
大清真寺 は現在西安市には約5万人の回族イスラム教徒がおり、この民族の人口は西安における40の少数民族のトップを占めます。したがって、西安にはイスラム教のぽ 寺院がたくさんあります。 清真大寺は、鼓楼のすぐそばの市内いの中心地近くにあり、西安に住むイスラム教徒の宗教活動の中心です。寺中に保存されている 石碑の記載によれば、この寺は唐の玄宗の天宝元年(742年)の建立であるが、明代の1384年に大修理が行われています。 寺院は楼?台?亭?堂の4つの部分に分かれ、敷地は一万二千平方m、建築面積は約四千平方m、ほぼ完全な古代建築群で構成されています。 前院には高さ9mの瑠璃屋根、異角飛檐の木牌坊があります。第二院には石碑坊が一ヶ所あり、石碑には明、清代にこの寺を修理したことが記載されていま す。第三院の中央に省心楼という建物があります。これは礼拝のとき、回教の僧侶が白い帽子を振って、人々を召集する場所です。第四院は礼拝大殿とも呼ばれ ており、信者は毎日五回、ここで西に向かって礼拝します。礼拝の前にはシャワーを浴びる習慣があります。大殿の面積は1300平方mで、一回に千人以上の 礼拝式ができます。礼拝殿の周囲の壁はイスラム教の伝統的な装飾芸術を採用し、唐草模様の間にアラビア文字がたくさん刻んであります。この寺は全て中国の イスラム教の伝統的な様式によって作られたもので、その特徴で楼?台?亭?堂の四種類を形成しています。また、寺の建物は全て対になっています。その形式 は広々として、堂内の彩画は精密で古典的な建築の特徴を残しています。 人々の生活習慣、風俗などが民族によって異なることは言うまでもありませんが、特にイスラム教の寺院では男女が同席せず、タバコも禁止されています。 彼らは豚肉も酒も口にせず、彼らが食べる肉は主に羊肉と牛肉です。 結婚式は午後、新婦を迎え、翌日の朝に行います。聖典コーランを読み、メッカに生涯を誓います。女性はほかの民族とは結婚しませんが、男性は異民族と結婚できるという習慣もありました。 葬式のときも読経します。棺は使わず、28mほどの木綿の織物で遺体を包んで埋葬します。服装は漢族とかわりませんが、年配で回族意識の高い男性は白いフチのない帽子をかぶっています。住所:西安市化覚巷内鐘鼓楼広場西北電話:029−721987開門時間:8:00−18:00入場料: 15元 、乗車路線:市内の中心部鐘楼より下車、西へ途歩5分。 目次へ |
興慶宮は今の城外、東南郊外にあり、唐代の興慶宮の一部です。昔の興慶宮は玄宗皇帝の兄弟五人の王子たちの御殿として造営されました。その後、皇帝や貴族たちがよくここで歓楽を尽くしました。特に玄宗皇帝が728年に興慶宮で正式の政務を執りはじめてから、ここは大明宮に代わる唐代の政治の中心地でした。また、玄宗皇帝は楊貴妃と共に、長い間ここで酒と歌舞に明け暮れ、生活を欲しいままにしていました。745年〜756年までのことでした。唐代の興慶宮の面積は135ヘクタールでしたが、今の面積は50ヘクタールに過ぎません。しかし、昔の需要な建物がこの範囲にあるため、現在地は昔の興慶宮の中心です。現在の興慶宮には勤政務本楼の遺跡や沈香亭、花萼相輝楼、長慶軒、湖などがあります。勤政務本楼とは、玄宗皇帝が詔勅を公布したり、公式の宴会を行ったり、外国の賓客と会見したりするところです。花萼相輝楼とは、玄宗皇帝が毎年の旧暦8月15日に中秋節の際に自分の兄弟をそこに招いて、一緒に月見を楽しみ、深夜にはひとつの大きな枕とベッドで兄弟が一緒に寝たと伝えられる建物です。それは兄弟の間で互いに助け合う気持ちを高めるためでしたが、実は同床異夢で、血で血を洗う骨肉の争いが当時の常でした。 沈香亭とは、楊貴妃が牡丹を観賞するために建てられたものです。唐代、沈香亭の回りには牡丹が沢山植えられ、毎年春になると綺麗な牡丹が鮮やかに競い合って咲いていたそうです。史書によると、牡丹の花は百種類以上あって、一日に何回も色が変わったといいます。その季節になると、玄宗皇帝と楊貴妃は沈香亭で酒を飲み、歌を歌い、花盛りの牡丹を観賞しました。輿に乗って、李白を呼び、詩を作らせたこともありました。 今日、よく詠われている「清平調」という詩はその時に作られた物です。「名花傾国両つながら相喜ぶ、常に君王の笑いを帯びて見るを得たり、春風無限の恨みを解釈し、沈香亭の北欄干に倚る。」名花である牡丹と傾国の美女楊貴妃は共に玄宗皇帝の喜ぶもの、皇帝はいつも笑いを含んで見ていました。李白はこの詩で牡丹と楊貴妃を交互に書き、花即ち人、人即ち花、牡丹の美しさと楊貴妃の艶やかさを重ねて詠んでいました。この建物の材料には沈香木が多く用いられていたため、沈香亭と名付けられました。湖は面積38ヘクタールで、竜池と呼ばれています。湖水は樹木の陰を映して非常に美しい。玄宗は楊貴妃と船に乗り、風景を観賞し、楽しい生活を送ったことは広く伝えられています。長慶軒とは、かつて玄宗皇帝の音楽室でしたが、今は休憩室として使われています。興慶宮は今日、西安最大の講演となり風景秀麗で、昔日の宮殿の雰囲気を演出しています。 目次へ 阿倍仲麻呂の記念碑 阿倍仲麻呂の記念碑は興慶宮公園にあります。これは、西安と日本の奈良市の友好都市関係締結五周年を記念して、1979年7月1日に立てられたものです。大理石作りの美しい記念碑の高さは6.1m、碑の正面には金文字で「阿倍仲麻呂記念碑」と刻まれ、側面には阿倍仲麻呂が故郷の奈良を偲んで詠んだ望郷詩と当の詩人李白が仲麻呂を哭す詩がそれぞれ掘られています。 阿倍仲麻呂は698年、奈良に生まれ、717年、19才の時、留学生として遣唐使に従って長安に来ました。彼は国子監(大学に相当)で一所懸命勉強し、当時最難関とされていた進士の試験に合格し、唐王朝の官吏となり、752年に今の国立図書館館長に当る職にも就きました。こうして、彼は長安で35年間生活しましたが、祖国日本および親類を偲ばないことはなくて、小倉百人一首で有名な短歌を作りました。「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」仲麻呂は753年6月、玄宗皇帝の指示で唐王朝の身分のまま遣唐使の藤原清河、副使吉備真備と共に長安を離れ、帰国の途につきました同年10月15日、仲麻呂は楊州で鑑真和尚を表敬訪問し、鑑真を日本に誘いました。11月15日、仲麻呂は藤原清河と第一船に、鑑真は第二船に、吉備真備は第三船に、他の碑とは第四船に乗船して蘇州を出発しました。渡航は困難を極め、12月6日沖縄を横切る途中で暴風雨に巻き込まれ、大部分の人が遭難してしまいました。かろうじて生き残ったのは仲麻呂など十数人で、仲麻呂は暴風に任せ、ベトナムに漂流し、中南島に上陸しました。そして、あらゆる困苦辛酸を嘗めながら二年後の天宝十四年六月(755年)に再び長安に戻りました。 この年、安禄山の乱が起こり、その後、彼は玄宗皇帝に従って蜀州へ行き、757年12月、再び玄宗と共に長安に戻りました。その後も唐王朝の高級官僚として長安で活躍し、770年、73才で亡くなりました。 住所: 西安市咸寧西路37号 電話:029−2485373 開放時間:6:30−18:00 入場料:0元 目次へ |
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西安西郊外の観光スポット
乾陵は唐の高宗皇帝李治と女帝武則天の合葬墓である。夫婦とともども皇帝の位につき、二つの王朝を支配し、そして死後同じ陵に埋められるのは歴史上においてごく稀なケースである。陵は西安市北西約80キロ離れる乾県北の梁山に位置し、山を陵として岩を掘って地宮とした。規模は雄大で迫力のある陵は盛んな時代における中国封建王朝の帝王陵の典型的な代表と言える。陵へ通じる司馬道に沿って行けば、翼馬、石獅子、石像、無字碑などの唐の巨大な石彫刻の圭作が見られる。世界の始めての女性皇帝は日本の推古天皇、武則天より300年前。乗車路線:西安市城西バスセンターで長武行きに乗り、乾陵で下車 、入場料:46元,26元(永泰公主墓、乾陵博物館込み) 傾国の名花国の名花楊貴妃の墓は西安から70キロほど離れた興平県の馬嵬坡にあります。彼女は718年に生まれ、756年に亡くなりました。745年に玄宗皇帝の貴妃となり、玄宗は楊貴妃を得てから、毎日酒と歌舞と貴妃の愛に溺れて政務から遠ざかりました。このため、国内情勢は次第に悪化し、政治は窮境に陥りました。755年、勢力を貯えてきた安禄山が叛旗を翻し、所謂「安史の乱」が起こりました。楊貴妃は玄宗皇帝に従って、戦火を避けました。途中、馬嵬坡で近衛兵と指揮官の不満が募り、騒乱が起きました。兵士たちは「窮地に陥ったのは楊一族のせいである」と楊国忠を殺し、さらに、玄宗皇帝に楊貴妃を殺すことを要求しました。玄宗皇帝は兵士たちの激昴の前に涙に暮れながら宦官、高力士に楊貴妃を絞殺せよと命じました。楊貴妃はこの時、寺に入って仏に祈りたいと玄宗に希望し、許可を得た楊貴妃は寺に入って、仏像に面して「一日早く亡くなったら一日早く生まれ変わるようにお願い申し上げる」と祈りました。その直後、楊貴妃は絞殺されました。時に38才。子供もないままに死んだ彼女の一生は「花の命は短くて苦しきことのみおおかりき」という詩の通りでした。玄宗は楊貴妃を簡単に土葬して四川に逃げ、危難を避けました。昔、楊貴妃の墓は土盛りでしたが、墓の土は毎年春に白粉に代わって、香を漂わせました。その白粉を顔に付けると美人になるという噂が広まって、大勢の若い女性がその白粉を欲しがって墓に参りました。このため、2,3年のうちに墓の盛り土がなくなってしまいました。現在の墓は半球状のレンガで覆われていて、墓前に「楊貴妃之墓」の碑があります。楊貴妃の非業の死は人々の心を打ち、以来、歴代の多くの詩人が墓を参拝し、多くの詩を献じました。それらの詩は30基の石碑に刻まれ墓の回廊の壁に収められています。現在、墓地の辺りには門楼が建ち,亭、堂が復元されています。また話で日本の山口県にも楊貴妃のお墓がある。住所:興平市西馬嵬坡 電話:0910−8240024開放時間:8:00−18:00 入場料:20元。 乗車路線:西安市城西バスセンターで興平市行きに乗り、または、タクシーでいける。 茂陵 武帝劉徹(前156−前87)は漢の第五代皇帝である。紀元前141年、16歳で即位し、紀元前87年、70歳で亡くなった。彼が在位した54年間、政治、軍事、経済などいろいろな分野にわたって効果的な措置を実行し、北方の匈奴を追い払い、河西回廊を確保し、漢民族の国の繁栄をもたらした。そして紀元前138年には張騫を遣わしてシルクロードを開通させた。これは中国と中央アジア諸国との経済、文化の交流にとって画期的な出来事であった。 茂陵は西安から約45キロの渭北高原の興平原に位置する。前漢の皇帝陵の中で最大で、造営の期間も長く、武帝の即位から53年もの長い期間をかけている。陵墓の高さ47m、陵の周囲は916mで、敷地の面積は5400平方mある。陵は錐形をしていて、厳やかな安定感が感じられる。歴史の記録によると、陵墓には外国から送られた玉の箱、玉の杖や武帝が生前に愛読していた本など、いろいろな宝物が入れられたとされている。陵墓には一体どのくらいの宝物があったのかは今となっては不明であるが、当時毎年国の租税の三分の一が墓造りや副葬品の買い入れに用いられていたという記録がある。 茂陵のまわりには約20の陪塚が点在している。これらの陪塚は方形、円形、山形の三種類に分けられ、李夫人、衛青、霍去病、霍光などの皇族や功績のあった大臣の墓がある。 茂陵を管理するために、当時陵令、門吏などの官職が設けてあって約5000人の雑役夫が樹木、草花などに水をやり、掃除をしていた。 当時、漢代の埋葬制度に従って、茂陵の東南の辺りに町を造った。「漢書」の記録によると、おびただしい文官、武官、貴族が相次いでここに移住し始め、町の人口は28万人になった。現在でもこの付近には幾何学模様と青龍、白虎、朱雀、玄武のついた芸術的に高い価値がある「空洞煉瓦」などが出土されているが、昔の建物はひとつも発見されていない。住所:咸陽市五陵原 電話:0910−8418040 開放時間:8:00−18:00 、乗車路線:西安市の玉祥門から咸陽行きの観光バスが利用できる。入場料: 45元 (霍去病墓、茂陵 博物館込み) 渭河のほとりの街、宝鶏の街外れに三国志に度々出てくる渭河が流れている。残念ながら水量が昔ほど多く流れていないが、なにかロマンを感じる処である。 宝鶏から東に向かい、高速道路ができて、1時間ほど来られる。 この辺の地域一帯を「一帯を「五丈原」というが、台地の五丈原には、まず、「諸葛泉」があり、「孔明が水を汲んだ」とされる、神聖かつ由緒ある泉だが、付近ではおばちゃん方が洗濯場として利用している。また、「諸葛亮廟」「諸葛亮祭燈壇瞭望台」などの史跡が残っている 諸葛孔明のお墓 宝鶏市岐山県所在地の南20キロほどの五丈原にあり、太白山北側を控えている。「岐山県県誌」によれば、諸葛孔明廟は元代の始に造られて、明代と清代になると、何度も増築されたという。その規模はそれほど大きくなく、現存されている建築は、ほとんど清代のもので、廟門、母屋両側の棟、両側の棟、献殿鐘楼、鼓楼、正殿などがあって、そのうち、八角形の屋根がかかっている「八卦亭」が一番目立っている。ここをれると諸葛孔明の姿が覗える。入場料:20元(諸葛孔明廟、諸葛孔明墓、落星石込み)チャーター車 |
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昭陵は唐の第二代皇帝李世民の陵墓です。李世民は父の高祖李淵に譲位され、626年に即位しました。翌年、貞観と年号を改めました。在位23年は中国の歴史上での極めて繁栄した時代で「貞観の治」を作り上げました。太宗李世民はモラルの確立を重視し、儒教道徳政治の理想社会を築くことに力を入れました。「民、道に落ちたる物を拾わず、外出戸を閉じず」と言われたほどの平和な「貞観の治」です。昭陵は当時の都長安から80キロくらい離れた九峻山の頂上にあります。九峻山とは9つの険しい峰があることからそう呼ばれていますが、昭陵のある峰は日本の富士山の形に少し似ています。しかし、東側から見ると筆置きの形に似ているので、土地の人々は筆架山と呼んでいます。この山が陵墓の地に選ばれたのにはエピソードがあります。中国各時代の皇帝は誰でも皆陵墓の地をどこに選ぶかを大変重視していました。李世民も例外ではなく、大臣の李助と魏徴を派遣して陵墓の地を選定させました。李助は九峻山に着て、頂上の峰に登り、演技の良い印として穴開き銅銭を埋めました。それからなく魏徴も偶然同じ場所に着て辺り景色を眺め、すっかり気に入って彼の立ったところに縁起の良い印として銭を埋めました。李世民はこの結果に満足し、ここを陵墓の地と決めました。太宗李世民を埋葬した二日目にこの山が一夜のうちに高くなり、以後少しずつ高くなっているという伝説があります。636年、すなわち太宗が即位して10年、文徳皇后長孫氏がなくなったとき、太宗は皇后の「山に埋葬」という遺言によって九峻山に皇后を埋葬し、昭陵と名付けました。それから引き続き造営しました。「山に因って陵を為す」という唐代の帝王陵墓の造りかたの先例となりました。 649年、太宗が亡くなって文徳皇后と合葬されて、これによって陵墓の造営工事は終りました。「山に因って陵を為す」の先例になった昭陵は自然の山(九峻山)を選んで穴を掘って墓室に通じる墓道と峰の底に地下宮殿を造りました。ある資料によると、墓室までの墓道は深さ230mで、墓道に五つの石門が設けられているということです。地下宮殿は広く、華やかで、長安城の宮殿とほとんど変わらず、墓道の両側にはそれぞれ部屋があって、その中に石の箪笥が並べられ、石の箪笥の中に殉葬品の入った鉄の箱が治められているということです。往来の不便を解消するために、岩に沿って桟道を造り、昭陵の上には墓守のために家屋などもあります。千年あまりの変遷を経て、昭陵の地上の建築物はなくなり、今は遺跡が数ヶ所残っているだけです。陵墓の南の山の下に、朱雀門、献門、北に祭壇、司馬門、東西には小さい建物、西南には宮城(当時多くの家屋がここに建てられていた)がありました。宮城の建物は一度火災に遭いましたが、798年に378間の部屋が建て直されたそうです。献殿の遺跡から、高さ150cm、重さ150Kgの陶製のしゃちほこが出土されましたが、この建物の装飾品から当時の宮殿の雄大さと規模が想像できます。昭陵は周囲80キロ、総面積二万ヘクタールあり、陪塚が167ヶ所あるのが昭陵の特徴のひとつとなっています。太宗李世民の柩は陵墓の一番北にあって、長安城の北にあった宮殿と同様、高い所から下を臨むことができます。陪塚の中では唐王朝の繁栄を導いた魏徴、李助、李靖の三人の墓が他の墓と異なった形をしています。李助の墓は陰山、鉄山、鳥徳健山であげた彼の輝かしい業績を記念して、その3つの山の形をしています。この墓の前にはまた一組の石人像があって、左側に石羊、右側に石虎がそれぞれ三体ずつ配置されています。そも墓碑は高さ6.65mで、高宗李治が自ら李助のために墓誌を書き、また自筆したものです。この三人の墓の規模から、彼らの業績と唐王朝の特殊な関係がわかります。また、陪塚の中には西北地区の少数民族の将軍たちの墓もあります。彼らは唐政権の中で重要な職につき、中には唐の皇族と婚姻関係を持ったものもいます。昭陵遺跡にみられるもうひとつの特徴は石刻芸術がリアルな手法で統一されていることです。昭陵は唐の有名な美術家閏立徳のデザインに基づいて造営されたもので、規模や配置などに独特の風格を持っています。「昭陵六駿」のレリーフはその代表的なもののひとつです。六駿とは唐の太宗の愛馬で、この六頭の馬に乗って戦場を駆け巡りました。この六頭の馬は唐王朝の統一の戦いで業績をあげたので、太宗の命によって石に刻まれ、昭陵の北の祭壇に安置されました。馬の姿がそれぞれ異なり、強健でたくました、生き生きとしています。熟練した職工と簡潔な手法で実物を表現し、きわめて高い芸術的価値を持っています。残念ながら、これらの珍しい芸術品は1920年に盗まれ、そのうちの二つはアメリカのフィラデルフィアのペンシルバニア大学博物館に保存されています。残る四つは密輸中に発見されて、西安に運び戻され、現在碑林石刻芸術博物館に展示されています。密輸中にこの六点はいくつかに割れてしまって、現在は馬に射かけられた矢も見えず、レリーフに書かれていた太宗の題字とその馬の名前も見えなくなってしまいました。幸い、北宗の遊師雄が立てた昭陵六駿の石碑がまだ残っていて、それに線刻の手法で、この六駿のレリーフを詳しく、名前、毛色の特徴、功績及び太宗が書いた称賛の全文の記録が六駿の他に安置されていました。唐の時代、墓の前に石碑を立てたり、墓室の中に墓誌銘を安置したりすることが盛んでした。昭陵も同じで、これらの石碑には唐初期のすばらしい書が残されています。その中で、書道に熱心だった太宗の石碑の多くが昭陵博物館に保存されています。また、昭陵から出土した陪葬品は特に数が多く、内容的にも豊富です。石俑、木製俑、陶俑、色釉俑などいろいろあり、そのうち色釉俑は昭陵から出土した文物の特色を代表するものです。唐の時代は、非常に繁栄した時代でした。それに加えて唐の太宗は功績が多く、すばらしい皇帝だったので、彼の陵墓である昭陵は「天下の名陵」と言われています。1961年に国務院は国家重要文化財に指定し、併せて昭陵博物館を建てて、国内外の観光客を新たな顔で迎えています。昭陵博物館住所:礼泉県東北九峻山。電話:0910−5767009、開放時間:8:00-18:00 入場料:20元。昭陵乗車路線:西安駅または西安市城西バスセンターから西安ー礼泉方面行き、それから礼泉ー北屯行きのバスが利用 法門寺は西安から138キロ離れた扶風県の北にあり、後漢の恒帝と霊帝の時代(147−89)に建立された寺です。寺の境内には塔があって、法門寺はこの寺で有名です。 後漢の時代から北魏の時代、まで、この寺は阿育王(アショカ)寺と称されました。アショカ王は古代インドの国王で釈迦牟天が入寂した200年後、(前272−前226)仏の骨(舎利)を八萬八千四百に分骨して世界各地に塔を建て供養したと伝えられています。中国では19基の仏真身舎利塔が建立されました。法門寺塔はその中で第五基といわれています。 隋の文帝開皇三年(583年)にこの寺は成実道場と改名され、唐の高祖の武徳七年(624年)に法門寺と名付けられました。 法門寺塔は最初四層の木造でしたが、明代に潰れてしまったので、明の神宗は万暦七年(1579年)にこの塔を十三層の煉瓦造りの塔に造り直しました。塔身は高さ54mあります。塔の二層から十二層までそろぞれ各層に八つの仏壇があり、その中にそれぞれ銅製の仏像と菩薩像が一体ないし三体安置されています。合計104尊あり、大部分の仏像は背に文字が刻まれていて、刻銘の内容によって、これらの仏像の奉納者は主に明代の官僚であったことがわかります。仏像のそばに南宋と元の時代の写本の経典と復刻の経典が置かれていました。 清の順治年間(1644−1661)に地震のため、塔が傾き、中に亀裂が生じました。また、1981年8月24日に雨で塔身の側面の半分が倒れたため、1987年1月から塔を修理し始めたところ、4月3日、塔の地下に地宮を発見し、旧暦4月8日、地宮後室で一枚の仏の指の舎利を発見しました。 この指の舎利は八重の宝石箱の最も内側の、第八重目の純金製の小塔の中にある銀柱の上に挿してありました。この八重の宝石箱は、塔の懿宗が奉納したもので、金?銀?珍珠?漢白玉石?白檀などを材料として製作されています。八重の宝石箱の両側には石刻の四天王が舎利を護持するために侍立しています。第二枚の指の舎利は地宮にある漢白玉石製の小塔の中に安置してありました。第三枚は地宮後室にある小龕の中の鉄箱にありました。この鉄箱の上辺に「奉納皇帝敬造釈迦牟尼仏真宝函」と刻まれています。第四枚は地宮の前室にある彩色の菩薩舎利塔の中に安置してありました。これまで、釈迦の指の舎利と称される舎利は四枚発見されていますが、その中の1枚だけが釈迦の本当の指です。これは(霊骨)と呼ばれ、他の3枚は(影骨)です。影骨は霊骨から複製したものですが、仏教の世界では影骨もやはり聖骨で、仏の真身舎利と考えられています。この四枚の指の舎利は世界で始めて発見されたもので、現在も指舎利はこれしか存在しません。祖の他、法門寺塔の地宮からは首の無いガラスの壷、青い釉薬の水差し、純金の糸で刺繍した礼拝用のクッション、真珠の瓔珞を付けた金めっきの菩薩像が掘り出されました。さらに、金銀の器131点、錦、綾、羅、紗などの織物700点、珍珠や宝石400点、ガラスの器17点なども出土しました。皿や碗、瓶は上辺に青、黄、緑、白などの色がつけられ、とても綺麗です。ガラスは西域から中国に伝来したもので、西アジアの特徴があります。これらの珍品の中で純金の「単輪十二環錫杖」は非常に精巧です。法門寺は長い間皇族の御用寺院として歴代の皇帝から崇められました。北魏の時代にその塔の地宮を開いて釈迦の指の舎利を見せたことがあると伝えられています。唐代のほとんどの皇帝が仏教を崇拝し、方門寺の仏骨を何回も宮廷に迎え盛大な行事を行いました。俗伝によれば、法門寺唐の舎利は三十年毎に開帳されたそうです。 しかし、唐代の末期から沈黙しつづけました。その唐の地宮に納められた釈迦牟尼の真身仏骨の舎利や歴代の皇帝が供養した金銀などの宝器は人々には容易に想像できない秘蔵の逸品となっていました。法門寺での発見は国外にも中国文化の栄光を示しました。また、世界に仏教界においても喜ばしい大きな出来事でした。法門寺地身やからの出土品を完全に保存するために法門寺博物館が建られ、今日、博物館で数多くの珍品を見学できます。住所: 陜西省宝鶏市扶風県 、 電話: 0917−5254152 入場時間: 8:00−18:00 入場料:28元(法門寺博物館18元) 乗車路線:西安玉祥門外潘家村バスセンターから西安ー扶風方面行きの観光バスが利用できる。チャーター車 楊凌農科城(昆虫博物館、人工降雨シミュレーションホール、農業科学技術モデルゾーン) 乗車路線:城西バスセンターで楊凌行きのバス、または、西安駅で西安ー宝鶏の高速列車が利用できる チャーター車
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陝西省珍稀野生動物救護飼養研究センター チャーター車 陝西省西安市周至県楼観台森林公園にある、ジャイアントパンダ、レーサーパンダ、キンシコウ、ターキン、オオサンショウウオ、トキなどがいます。 |
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藍田原人遺跡は于県の東南20キロの公王嶺にあります。 1963年5月、中国科学院などによる実地調査隊によって中年女性の原人の頭蓋骨の化石が発掘されました。 頭骨が厚く、額は平らで、眉骨がたくましく、下あごが突き出したこの化石の鑑定の結果、北京原人よりも更に古く、およそ90−100万年前のものであることがわかりました。この化石は藍田原人と名付けられました。 同時に出土した動物の化石が40種類ほどあり、山の斜面には原人展覧ホールがあります。乗車路線:西安ー商州行きに乗り、九間房で下車、南へ1キロ行く 入場料:15元 チャーター車 水陸庵は西安の東南50キロの秦嶺の麓にあり、無類の美しさを持ち多種多彩な塑像を所蔵する。 水陸庵は東向きに立てられ、山門内には前殿、中殿、大雄宝殿とその他の建築があり、殆どが明清のものである。この水陸庵は唐代あるいはその前の南北朝時期に創立されたものと見られるが、当時の地上建築は跡形もない。今に残る配置は明の時代のものである。 水陸庵の彩色塑像はきらびやかな上に壮観で、大殿内の南と北の2つの高い壁、殿内正面の仕切りの間の西壁と両側の軒つきの壁の4つの部分からなる。その中で、南北2つの壁の塑像群の面積が最も大きく、精彩を放っている。これらの壁にほどこされた塑像群は連続物語のごとき形式で配置され、南側から北側へと上下に並べて釈迦牟尼の略伝が紹介されている。 人物としては多くの仏と菩薩、飛天と供養者があり、鳥獣としては竜、鳳凰、獅子、象、牛、麒麟などが見られ、景観としては庭園、山河、楼閣や他の家屋などがある。人物像の外観と表情はそれぞれ真に迫り、いずれも個性がはっきり現れている。 これらの壁にほどこされた塑像群は非常に多くの内容を含み、塑像の数も簡単に数えることができないほど多い。住所: 西安市藍田県 電話:029−2925741開放時間:8:00−17:00入場料:5元 。乗車路線:西安駅広場で商州、丹鳳方面行きに乗り、藍橋で下車 、入場料:30元 チャーター車 陝西太平峪 陝西太平峪のところ、西安から30キロ離れている。ここの滝の数がわが国最大のもので、大小12箇所滝が見られる。滝の最大落差は百メートル余ある。境内には、険しい岩山が重なり合い、山々が高く聳え、峡谷が交錯している。そして、滝や流れの急な浅瀬も多くあるので、観光客に「北方の九塞溝」と呼ばれている。 |
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乗車線路:戸県林業局ビルデイングに連絡事務所が設置されているが、お客さんは直接公園の連絡事務所に直接にご連絡してください。または、戸県三球儀バス停より戸県石炭工場方面のバスも利用できる。 チャーター車 |
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朱雀国家森林公園 戸県南部、秦嶺の北麓にある。1萬ヘクタールもある森林地帯に位置し、総面積2621ヘクタール。公園は五つの部分に分けられ、105箇所スポットが見られる。中でも、雄壮な氷河翠、珍しい龍潭子、峻険な奇秀峰、秀麗な芦花河、幽玄な秦嶺梁などがそれぞれの特色があり、見る人を楽しませてくれる。夏の最高気温が27度という快適さである。 |
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乗車路線:西安朱雀門または水司バス停から戸県方面のバスに乗り、さらに戸県方面のバスに乗り、さらに戸県朱雀森林公園連絡事務所(人民路交差点100メートル)で乗り換え。チャーター車 |
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兆倫村遺跡、鐘官城遺跡、前漢の貨幣工場 前漢の造幣の中心と見られる陝西兆倫銭鋳造遺跡 |
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翠崋山 西安市南20キロ離れ、秦嶺山脈の北麓にある。秀麗な景色や天候に恵まれている山は、珍しい岩、植物、洞窟などを特徴として、峡谷と渓流が美しい絵巻を織り成す峡谷と渓流、珍しい植物が見ものである。山崩れの地域は5.2平方キロあり、その地質は規模と状態から見ればわが国最大ものである。2002年新開発のスポット翳芳湲は水が豊かで美しく、境内はほとんど人口による破壊もなく自然そのままの姿が保たれている。 乗車路線:西安市大南門外体育館、長安路、韋曲から西安ー翠崋山行きの観光バスで直行できる、入場料:70元 チャーター車 興教寺は西安から20キロ離れた長安県の少な陵原にあり、近くに樊川を望み、神禾原を隔てて、遠く終南山を眺望する高台にあります。この寺 も『西遊記』ゆかりの唐代高僧、玄奘(三蔵)法師の遺骨を移葬し、供養するために、唐の第三代皇帝高宗によって総章二年(669年)に建立された有名な寺です。玄奘(三蔵)法師は唐の麟徳元年(664年)に入寂しました。当時、玄奘(三蔵)法師の遺骨は西安東郊外の東鹿原に埋葬されていましたが、あまりにも皇身やに近く、それを見るたびに心を痛めた高宗皇帝は総章二年になって樊川少陵原のこの地に改葬しました。その後、唐の粛宗皇帝李亨がこの寺に参拝した際に「興教」という題字を書いて掲げたので、以来、この寺は興教寺と呼ばれるようになりました。 境内には玄奘(三蔵)法師の墓塔を中央に、その高弟の窮基(西遊記の人物、猪八戒)の墓塔と円測(朝鮮人、西遊記の人物、沙悟浄)の墓塔が左右に立っています。二人の高弟の塔は恩師に会釈するかのように少し前傾しています。この寺は三基の舎利塔があるため、名高く、また、樊川八大寺院としても知られます。当時は寺に立派な塔、殿、堂、楼などが建立されて美しい寺でした。しかし、100年ほど前に、戦乱のため、三基の塔を残して。ほかの堂、殿などはすべて焼失しました。その際、粛宗の書いた興教の扁額も焼失しましたが、その後、再度にわたる修理が行われました。この時、清の光緒帝時代の政治家である康有為が書いた「興教寺」の扁額が掲げられて。今日に至っています。この書は「有為」が朱書になっています。 今日では木立に囲まれた静寂な境内に高さ23mの玄奘舎利塔をはじめ、大雄宝殿、法堂、蔵経楼などの伽藍があり、美しいたたずまいとなっています。大雄宝殿には本尊釈迦如来坐像があります。この金銅仏像は清代のもので、台座は三種の千体仏でできた珍しいものです。また、この中に多くの仏像が祀られています。法銅の須弥壇には、まず本尊の前に安置されている高さ30cmの小さな清代の白玉仏があります。釈迦三尊は上下二段があり、上段は明代のもので、この寺で最も古い像です。また。西方三聖像、観音菩薩像、清代の彩色仏画と中国仏教八大宗派の歴史の説明書もあります。蔵経楼は二層の建物で、その二階には宋代に印刷された一万巻近くの大蔵経などの仏典が納められています。住所:西安市長安県社曲少陵原 電話:029−5937335 開放時間:8:00−17:00 入場料:15元 。乗車路線:直行する57路バス、または、南門の始発で215路、219路に乗り、長安区で乗り換える。チャーター車 香積寺は西安の南約17キロの長安県神禾原にあります。この寺は仏教浄土宗の第二世善導法師を祭るために建てたもので、境内には善導法師の舎利塔があります。この寺は浄土宗の発祥の地とみなされています。 寺の建立は唐の中宗の神龍二年(706年)善導の弟子の懐[リッシンヘンの軍]によりものです。「天竺に衆香の国あり、仏の名は香積なり」という伝承によって「香積寺」と名付けられたのは善導法師が香積仏に例えたためです。この寺を詠った唐の詩人王維の「香積寺に過ぶ」はあまりにも有名です。「香積寺を知らず、数里にして雲峰に入る。古木碑と径無く、深山いずこの鐘か、泉声は危石にむせび、日の色は青松に冷えかなり、薄暮空潭の曲、安禅毒龍を制す」 この香積寺を包む神秘的で奥深い南山の自然が目に浮かびます。 唐代以後の長い歴史の中で、この寺も激しい変遷を経てきました。寺の名が北宋の時に「開利寺」と変わったばかりでなく、建物も長い年月を経てほとんど倒壊してしまいました。現在残っている唐代のものは善導法師の舎利塔のみです。この塔は高さ33m、11層の煉瓦造りで、本来は13層あったと伝えられており、風化されて今のようになりました。その精巧で美しい彫刻から、当時の人々の仏教への厚い信仰を読み取ることができます。時代が下がって清の乾隆年間には、この塔の四面に「金剛経」が楷書で刻まれ、塔門には「涅槃盛事」という四文字の額が石刻ではめ込まれています。 香積寺は唐代に非常に栄えた時期がありました。当時、懐軍和尚は全国から僧侶を招き、盛大な法事を行い、則天武后や中宋も何度も香積寺を参拝しました。 そもそも浄土宗は東晋の時、天竺から中国に伝わって来たので中国における創始者は慧遠で、浄土宗の体系を受け継ぎ完成させたのは善導法師です。ですから、善導法師は第二世始祖と尊ばれ、実際の創始者とみなされています。 善導法師は613年生まれ、俗名を朱と言い、今の山東省の出身で、幼い頃に出家しました。645年、善導法師は唐の都長安に移り、しばしば長安城にある光明寺(今の西北大学敷地内)で教義を広めました。彼は全力を浄土宗念仏法門の研究に尽くし、【阿弥陀仏経】一万巻を書き上げました。また、【感無量寿経疎】をはじめ、多くの書を著わし、浄土法門の教相と教義を明らかにしました。浄土宗は「阿弥陀仏」という遥かな悲願を一身に託し、ひたすら念仏を唱えて死後の極楽往生を目指します。「阿弥陀仏」というのは梵語で、無限の光明、無限の寿命、無限の智恵という意味です。 日本の浄土宗の開祖、法然上人は善導の継承者として「三国七高祖」の一人です。法然によって、香積寺は日本の浄土宗信者の発祥地となりました。日中国交回復後、日本の浄土宗信者を始め、各界から続々と香積寺に参拝し、善導塔、大殿の修築、改築も急ピッチに進みました。日本から贈られた善導法師像は新築された大殿に安置されています。今、香積寺は単に浄土宗の発祥地としてだけででなく、日中両国いの友好の絆としての役割も果たしています。開放時間:8:00−17:00 入場料:20元 。乗車路線:西安市体育館より西安ー韋曲行きのマイクロバスに乗り、韋曲で乗り換え。チャーター車 南五台山 秦嶺山脈北麓の中段、西安市長安区五大郷にあり、市から25キロ離れている。山には観音、文殊、清涼、れい応、舎身5台と五つの峰画あるので五台と呼ばれるようになった。わが国の仏教聖地の一つとして、境内には高く聳える古い木がおおく、周りに山山が幾重も重なり合い、寺の殿堂が雄大で荘厳な雰囲気に包まれている。乗車線路:南門外または南鰺梢門交差点西側より終南山方面の観光バスが利用できる。チャーター車
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