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  ご来訪いただき、誠にありがとうございます。私どもは西安(昔の長安)出身、中国金橋国際観光旅行会社西安支社の日本語観光ガイドです。私どもが生まれ育った“悠久の歴史を持つ古都長安”を皆さんにもっと広く深くご紹介するために、この観光旅行ホームページを作成致しました。基本観光ルート、観光コースをはじめ、さまざまな時代テーマや人物テーマ、観光スポット情報など、各方面からお客様のニーズに合ったご紹介することを目標にして頑張っております。お客様の要望に沿ったアレンジも致しますので、詳しくはお気軽にお問い合わせ下さい!

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薛祥雲(セツ ショウウン):日本語担当、通訳 /観光ガイドも可、旅行業経歴6年間、国家認定ガイド資格を持ちます。 文虹妮(ブン コウジ):西安市優秀日本語観光ガイド/通訳、旅行業経歴6年間、国家認定ガイド資格を持ちます。 李娜(リ ナ):西安市優秀日本語観光ガイド/通訳、旅行業経歴6年間、国家認定ガイド資格を持ちます。 郭玥(カク ゲツ):西安市優秀日本語観光ガイド/通訳、旅行業経歴6年間、国家認定ガイド資格を持ちます。 杜超(ト チョウ):西安市優秀日本語観光ガイド/通訳、旅行業経歴6年間、国家認定ガイド資格を持ちます。

倪(ゲイ)

日本語担当、通訳 /日本語西安観光専門ガイドも可、旅行業経歴13年、国家認定観光ガイド資格を持ちます

薛(セツ)

日本語担当、通訳 /日本語西安観光専門ガイドも可、旅行業経歴12年、国家認定観光ガイド資格を持ちます

文(ブン)

優秀な日本語西安観光専門ガイド/通訳、旅行業経歴12年、国家認定観光ガイド資格を持ちます

李(リ)

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郭(カク)

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杜(ト)

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劉(リュウ)

優秀な日本語西安観光専門ガイド/通訳旅行業経歴11年、国家認定観光ガイド資格を持ちます

王(オウ)

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(ニン)

優秀な日本語西安観光専門ガイド/通訳、旅行業経歴11年、国家認定観光ガイド資格を持ちます

(チョウ)

優秀な日本語西安観光専門ガイド/通訳、旅行業経歴11年、国家認定観光ガイド資格を持ちます

武(ブ)

優秀な日本語西安観光専門ガイド/通訳、旅行業経歴8年、国家認定観光ガイド資格を持ちます

(シ)

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 隠れている中国密境三国志故地 漢中  new

西安の概況

  西安市は中国の西に位置します、悠久の歴史を持つ近代的な大都会である。黄河<黄色い川>流域の関中<関所の真ん中>平野の中部にある西安<昔の長安>は南に秦嶺山脈、北に胃水が流れ、気候が季節風のため、温帯の半湿潤性のものである。季節がはっきりしており、温和の気候に恵まれている長安は、年間平気気温は13度で、寒い冬以外のシーズンはすべて観光に適している。

西安は古くは長安といわれ、シルクロードの起点であって、イタリアのローマ、ギリシアのアテネ、トルコのイスタンブルとともに世界四大古都と称されている。

西安はすでに3100年あまりの歴史があり、周、秦、漢、唐など13の歴代の王朝がここに都を定め、その歴史が計1100年もある。周、秦、漢、唐の時代には、西安は中国の政治、文化、そして対外の交流の中心であった。漢唐時代の長安城は、東洋と西洋を結びつけるシルクロードの起点となり、各地からの賓客がここに雲集し、まさに万方幅輳の国際的な大都会であった。「東に長安、西にローマ」との言い伝えが世界の歴史における西安の役割を評価するもとっもふさわしいものである。

この生き生きと活力に富んだ都は、輝かしい歴史と数多くの文化遺産を誇り、さらに整備されつつある都会のインフラ、ハイテクな情報サービス機能など、日進月歩に発展する近代的な大都会の姿と未来像を世界に示している。100以上の国内国際航空ラインを持つ西安国際空港は、西安を中心とする「米」字形の光ファイバーをもとに、マイクロ波や衛星通信、コンピューターなど公衆情報の地域ネットワークが型作られ、国際社会との情報交換に一層便宜を図ったのである。西安の科学教育における優位をさらに発揮させるハイテク技術産業開発区など近代化産業地帯の建設や林立する高級渉外ホテル、健康で多彩なレクリエーション、観光グッズなど品品を揃える快適なショッピングセンター、国の内外で好評されるグルメなど、国内外の観光客を魅了している

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西安市内の観光スポット  

鐘楼、鐘楼、鐘楼、鐘楼、鐘楼、鐘楼、鐘楼、鐘楼、鐘楼、鐘楼、鐘楼 は西安市内の中心にあります。ここを起点として東西南北に四つの大通りが伸び、それぞれ四つの城門に通じています。この四つの大通りが市内の交通網の基軸と なっています。 鐘楼は正方形の木造建築で、高さ36m、敷地1377平方m、高さ8mの煉瓦造りの土台の上に立っています。  昔、時を告げるため、明の洪武十七年(1384年)に造られました。もとは広済街にありましたが1582年に今の所に移りました。塔の上にかつて、大きな鐘が吊るされていました。鐘は毎朝70回撞かれ、鐘を撞き終わって から東西南北にある四つの城門がそれぞれ開けられたと言われます。 今、鐘楼の鐘の音は録音されており、毎朝市民に時刻を告げています。鐘楼は外から見れば華麗な三階建てですが、実は軒が三層、建築は二層です。楼の四方にアーチ型の通路があり、楼の中に階段もあります。天井には綺麗な花 の模様が描かれています。四方の門の人物像にはそれぞれ面白い来歴があります。この壮観な建物の造営のには釘が一本も使われていません。鐘楼は清代の乾隆五年(1740年)に修理されました。また、1953年7月から1954年6月にかけて全面的な大修理が行われ、ペンキも塗り直され、 現在の姿は全く昔日と同じです。楼上からは市内の街並を一望できます。安市鐘鼓楼広場 電話:029−7214665 開門時間:夏季8:00−19:00 冬8:30−18:00  入場料:20元 目次


大雁塔、大雁塔、大雁塔、大雁塔、大雁塔、大雁塔、大雁塔、『西遊記』ゆかりの大雁塔 各王朝 が都を定めた長安、その長安で古都の雰囲気を演出しているもののひとつに大雁塔があります。塔は現在の西安の東南郊外慈恩寺境内にあります。  慈恩寺は648年、唐の第三代皇帝高宗李治が亡くなった母、文徳皇后の慈恩を追慕して建立した寺で、高宗の皇太子時代に立てられました。当時の慈恩寺は 僧房1897室、僧侶300人が集まっていました。しかし、唐代末期、戦乱のため焼き払われ、今の大きさは昔の十分の一に過ぎません。  現在の境内にある当時の建物は大雁塔だけですが、塔の前方には明代と清代の建物が残っています。その講堂の中に金色の阿弥陀仏と昔の仏座が展示されてい ます。講堂前の大雄殿には釈迦如来の三身仏と十八羅漢があります。これらの仏像は明代のもので、後年、鍍金したり、塗装して現在に至っています。塔の東南 に明、清代の慈恩寺歴代住職の舎利塔が八基あります。庭園には鐘楼と鼓楼があり、その中にそれぞれ大きな鐘と太鼓が掛けられています。  シルクロードを通って西域128ヶ国を歴訪し、インドでの遊学を終えて、多くの経典と仏像を長安に持ち帰った『西遊記』ゆかりの唐代の高僧、玄奘(三蔵)法師は慈恩寺をすばらしい寺と して、この寺の境内に塔を建立して、仏像と経典を保存したいということを高宗に願い出ました。高宗は『西遊記』ゆかりの唐代高僧、玄奘(三蔵)法師の願いを適え、玄奘(三蔵)法師の建議によってインドの塔婆を 真似て、五層の塔を建てました。これは652年のことでした。この塔に使用された材料は煉瓦、石灰、土、餅米で、内部を土で築き、外面に煉瓦を積みまし た。塔が一日でも早く出来あがるように、玄奘(三蔵)法師は毎日、朝早くから夜遅くまで煉瓦などの材料を籠で背負って運搬したと伝えられます。 塔が竣功してから、玄奘(三蔵)法師の持ち返った仏像などがその中に安置されました。そして、玄奘(三蔵)法師は慈恩寺を翻訳経院とし、経典の翻訳を約11年間に亙って続けました。  大雁塔は則天武后の長安年間(701−704)に大改造を行って十層になりましたが、その後の戦乱などで七層から上が崩壊してしまいました。  現在の塔は煉瓦造りの七層で、高さ64m、中に螺旋階段があり、階段は碑と漸く擦れ違うことができるほどの幅ですが、最上階まで登ることができます。ま た、各層には正確に東西南北の四方に窓が開いています。  塔の南入口の左右の龕には唐第二代皇帝太宗の「大塔三蔵聖教序」の石碑と唐第三代皇帝高宗の「大塔三蔵聖教序記」の石碑があります。碑文の内容は玄奘(三蔵)法師の苦労を称えたものです。  唐の下部の東西南北側にそれぞれ石門の上に横木が一本ずつあります。南の石門の横木を潜ると、中央広間の回廊の南側の石碑の上に科挙の合格者の名前と出 身地が刻まれています。他の石門の横木にはそれぞれ精巧な線刻の仏像と天王像があります。特に西側の石門の横木に陰刻した釈迦説法図と殿堂図は圧巻です。  五門単層四注造りの仏殿が拓本取りで真っ黒になっていますが、陰刻された鴟尾や屋根などの状況は鮮明です。この仏殿図は日本の奈良?平安時代の木造建築 の原形となっただけでなく、中国建築市場でも唐代の建築様式、絵画、彫刻芸術を伝える重要な文化財です。  大雁塔はすでに1300年の歴史があり、その間、震度7以上の地震に度見舞われていますが、昔日の雄姿のままに重厚な姿を見せています。

住所: 西安市南郊大慈恩寺内  電話:029−5257958、開門時間:8:00−17:00 入場料:25元、塔内20元  目次


西安城壁、西安城壁、西安城壁、西安城壁、西安城壁、西安城壁、西安城壁、 西安城壁は紀元1374年から1378年にかけて築かれた西安城壁は長方形を成し、周囲11.9Km、高さ12m、上部の幅は 12〜14m位、中身は土、表面はレンガで覆われて、現存する中国の城壁の内、最も完璧なものである。東西南北にそれぞれ城楼があるが、東西だけが、二重 城楼になっている。シルクロードの起点として西門がとても有名である。昔、中国の絹はここから運び出し、西域の品々もここの門を通って中国全土に伝わっ た。今、西門の周辺には西域から移住してきた異民族の末裔が多く住んでいる。開門時間:8:00−18:00 入場料:40元 、レンタル自転車:20元(90分間)、電動カード50元(一回り) 目次


西安碑林博物館、西安碑林博物館、西安碑林博物館、西安碑林博物館、西安碑林博物館、西安碑林博物館、西安碑林博物館は西安城南門の東にあります。碑林とは文字や図像を刻んだ多数の石碑の集合を意味します。西安碑林は昔の西安の孔子廟を基礎として1087年に建てられました。この博物館は石碑展示室、石刻展示室、臨時展示室の3つに分かれています。建築面積は約4000平方m、展示品は約3000点あります。 博物館は南北に細長く、門をくぐると木牌坊が見えます。右に折れて正面をみると東西両側に展示室が続いています。その間の遊歩道の両側に石造りの動物模様の門柱や八角円堂の碑閣が立ち並んでいます。もっと奥に進むと碑林の展示室に着きます。 まず目に入るのは碑亭の中に立っている石台孝経です。この石碑は高さ5.7m、唐の玄宗皇帝の天宝四年(745年)の自筆で、内容は孝経に関する解説で、碑額の題字は皇太子李亨(後の粛宗皇帝)の書です。碑文の中に、「身体髪膚これを父母に受く」という明言もあります。 七つの石碑展示室には大型の石碑と墓誌銘が千基ほど展示されています。展示の石碑は漢の時代から清の時代までの各時代にわたっています。石碑には歴史実録、仏教、古代の名著などが刻まれていて、石碑は当時では文化を伝える重要な手段でした。 第一展示室には高さ2mの開成石経の石碑が114基あり、碑の両面に65万252の文字が刻まれています。開成石経は唐の文宗皇帝李昴が国子監(文部大臣)鄭罩の建議により、文宗の大和四年(830年)から開成二年(837年)までに艾居梅と陳王界らによって楷書で刻まれたものです。これらの碑の完成には約七年の月日を費やしたと伝えられています。文宗の開成年代に完成したのは開成石経と名付けられました。当時の統治者は、この石経を長安城務本坊の中に置き、大学生と文士たちに勉強させました。石経とは、十三種の儒教経典の意味で、即ち、周易、尚書、儀礼、詩経、周礼、礼記、春秋左氏伝、春秋公羊伝、春秋殻梁伝、論語、孝経、爾雅、孟子のことです。刻文の内容は中国の古い封建制度の道徳の倫理で、これにしたがって官僚を養成するのが当時の支配者の目的でした。また、地理資料、民間詩歌、貴族の冠婚葬祭の制度、名人の問答談話の収録、歴史文献など、数多くの典籍の精華が網羅されています。 第二室には唐代の有名な石碑を展示しています。唐多宝感應碑は唐代の大書道家願真卿四十四歳の自筆です。碑文の内容は唐代の名僧楚金禅師により多宝塔建立の経過文で、この中に唐の玄宗皇帝が多宝塔建立にため、当時のお金で五十万銭送ったことが記載されています。 顔家廟碑は、彼の七十二才の時に自家?顔氏の家廟のために書いたもので、内容は顔家の家史の総括です。顔真卿の作品は古今を通じて、顔法字として尊重されています。 唐玄秘塔碑は唐代の有名な書道家柳公権が六十歳の時に大達法師のために揮毫した墓碑です。内容は、大達法師が唐の徳宗、順宗、憲宗皇帝から受けた厚恩について記載されています。 唐同州聖教序碑は初唐の大書道家楮遂良の自筆で、内容は玄奘三蔵法師の苦労を称賛したものです。これは晩年の彼の傑作でもあります。皇甫誕碑は、歐陽通が書いたもので、道因法師が大慈恩寺で玄奘三蔵奉仕の経典漢訳の仕事を助けたことが記されています。有名な三蔵聖教序碑もこの展示室にあります。この碑文は唐の太宗皇帝の序文で、玄奘三蔵法師がインドから持ち返った膨大な仏教経典を漢語に翻訳し、皇帝に献上したという玄奘の功績を賞賛したものです。碑文の文字は主に書聖と称賛される王義之も原拓を懐仁法師が集めたものです。また、太宗皇帝の勅命によって、民間に散在する王義之の原拓を収集し、その原拓から文章に必要な文字を一字一字選んだものです。書聖の原拓の収集には、唐の太宗の貞観二十二年(648年)から唐の高宗の咸亨三年(672年)まで、実に24年間が費やされたと言われ、【一字千金】に値するという言葉が生まれました。碑林には古代中国と外国の友好往来の史実を記載している石碑もあります。この中で、大秦景教流行中国碑は外国にも名高い石碑です。この碑を刻んだのは唐の建中二年(781年)で、もとは長安大秦寺にありました。大秦とはローマ帝国を指す中国古代の呼称で、景教とはキリスト教の一会派です。この碑文に記載された景教の教義、教規などによって、古代中国におけるキリスト教の伝播状況や国際交流、友好往来の関係が明らかになっています。特に、碑の上にはシリア文字の職名が刻まれており、古代中国と古代のシリア、入らん、ローマ、アラビア半島諸国との友好往来を研究する資料としても価値が高く、この友好往来の史実を記載した資料は古今東西にこれしか存在しません。唐広智三蔵碑の内容はインド僧不空三蔵が布教師として長安を訪れ、大興善寺で真言密教を伝授し、サンスクリット経典77部、127巻を唐語に訳経したことです。中国の宗恵果は不空三蔵に就いて密教を深く学び、また、これを日本の空海に伝授しました。これが所謂三国三大法師の関係です。この碑文は楷書で、唐代の有名な書道家徐浩の筆です。 中尼合文之那陀尼経憧碑は中国語とネパール語の古い文字が刻まれています。唐王朝と友好応対を頻繁に行ったことの記載です。不空三蔵は唐の玄宗皇帝の勅命を受けて、この碑文を唐語に翻訳したという記載もあります。 第三室から第七室までには漢、唐、宋、明、清など。各時代の有名な書道家、芸術化の名筆があり、観音菩薩像、孔子像、達磨大師像や山水風景の日、漢曹全碑はいずれも傑作です。石刻展示室はこの博物館の重要な場所です。この展示室には陜西省に散在した数多くの石刻の中の代表的な作品が転じされています。前漢から唐までの逸品は70点あり、陵墓石刻と宗教石刻の二種類に分けられます。老子、武士、ダチョウ、牛、獲物を狙う獅子、石人に引っ張られる獅子、重さ10トンの石犀、神話の西王母と東王公の石像、石棺など、多くの石像があります。特に、唐の太宗皇帝が乗用した軍馬をモデルとして彫刻した昭陵六駿は最も有名な芸術の珍品です。この六駿は唐代の大画家閻立本の絵を模写して、高さ2.5m、幅3mの石版に彫刻されています。六駿は太宗が唐王朝を樹立するため、隋の軍隊と戦い、全国を駆け巡っている時に愛用した軍馬です。したがって、それぞれに故事来歴があり、史実を反映しています

住所:西安市三学街15号 電話:029−7210637 開放時間:夏季08:00−18:00冬季08:00−17:00 入場料:45元  目次


陝西省歴史博物館は唐代の建築様式を取り入れた中国一の博物館であり収蔵品が37万点、そのうち6000点が常時展示されている。 原始社会から明の時代までの長い歴史を代表する貴重な文化財がここに集められ、一堂にして中国の5000年の歴史を巡ることができる。特に唐代の壁画展示 が人目を引く。300㎡の唐代の壁画から34枚を厳選し、公開している。いずれも中国最高のレベルに達しているこの壁画は宮廷生活や楽隊、儀杖隊、狩猟風 景などが多彩に描かれ、中国古代絵画の最も重要な遺産である 西安市小塞東路  電話:029)5254727(029)5255624FAX:(029)5262216開門時間:9:00−16:30入場料: 35元 乗車路線:601路、521路、27路市区域のバス または、701路、827路区間マイクロ型バスでいける  目次


大清真寺、大清真寺、大清真寺、大清真寺、大清真寺、大清真寺、大清真寺、大清真寺、大清真寺 現在西安市には約5万人の回族イスラム教徒がおり、この民族の人口は西安における40の少数民族のトップを占めます。したがって、西安にはイスラム教のぽ 寺院がたくさんあります。 清真大寺は、鼓楼のすぐそばの市内いの中心地近くにあり、西安に住むイスラム教徒の宗教活動の中心です。寺中に保存されている 石碑の記載によれば、この寺は唐の玄宗の天宝元年(742年)の建立であるが、明代の1384年に大修理が行われています。  寺院は楼?台?亭?堂の4つの部分に分かれ、敷地は一万二千平方m、建築面積は約四千平方m、ほぼ完全な古代建築群で構成されています。  前院には高さ9mの瑠璃屋根、異角飛檐の木牌坊があります。第二院には石碑坊が一ヶ所あり、石碑には明、清代にこの寺を修理したことが記載されていま す。第三院の中央に省心楼という建物があります。これは礼拝のとき、回教の僧侶が白い帽子を振って、人々を召集する場所です。第四院は礼拝大殿とも呼ばれ ており、信者は毎日五回、ここで西に向かって礼拝します。礼拝の前にはシャワーを浴びる習慣があります。大殿の面積は1300平方mで、一回に千人以上の 礼拝式ができます。礼拝殿の周囲の壁はイスラム教の伝統的な装飾芸術を採用し、唐草模様の間にアラビア文字がたくさん刻んであります。この寺は全て中国の イスラム教の伝統的な様式によって作られたもので、その特徴で楼?台?亭?堂の四種類を形成しています。また、寺の建物は全て対になっています。その形式 は広々として、堂内の彩画は精密で古典的な建築の特徴を残しています。  人々の生活習慣、風俗などが民族によって異なることは言うまでもありませんが、特にイスラム教の寺院では男女が同席せず、タバコも禁止されています。  彼らは豚肉も酒も口にせず、彼らが食べる肉は主に羊肉と牛肉です。  結婚式は午後、新婦を迎え、翌日の朝に行います。聖典コーランを読み、メッカに生涯を誓います。女性はほかの民族とは結婚しませんが、男性は異民族と結婚できるという習慣もありました。  葬式のときも読経します。棺は使わず、28mほどの木綿の織物で遺体を包んで埋葬します。服装は漢族とかわりませんが、年配で回族意識の高い男性は白いフチのない帽子をかぶっています。住所:西安市化覚巷内鐘鼓楼広場西北電話:029−721987開門時間:8:00−18:00入場料: 15元 、乗車路線:市内の中心部鐘楼より下車、西へ途歩5分。 目次


興慶宮公園、興慶宮公園、興慶宮公園、興慶宮公園、興慶宮公園、興慶宮公園、

興慶宮は今の城外、東南郊外にあり、唐代の興慶宮の一部です。昔の興慶宮は玄宗皇帝の兄弟五人の王子たちの御殿として造営されました。その後、皇帝や貴族たちがよくここで歓楽を尽くしました。特に玄宗皇帝が728年に興慶宮で正式の政務を執りはじめてから、ここは大明宮に代わる唐代の政治の中心地でした。また、玄宗皇帝は楊貴妃と共に、長い間ここで酒と歌舞に明け暮れ、生活を欲しいままにしていました。745年〜756年までのことでした。唐代の興慶宮の面積は135ヘクタールでしたが、今の面積は50ヘクタールに過ぎません。しかし、昔の需要な建物がこの範囲にあるため、現在地は昔の興慶宮の中心です。現在の興慶宮には勤政務本楼の遺跡や沈香亭、花萼相輝楼、長慶軒、湖などがあります。勤政務本楼とは、玄宗皇帝が詔勅を公布したり、公式の宴会を行ったり、外国の賓客と会見したりするところです。花萼相輝楼とは、玄宗皇帝が毎年の旧暦8月15日に中秋節の際に自分の兄弟をそこに招いて、一緒に月見を楽しみ、深夜にはひとつの大きな枕とベッドで兄弟が一緒に寝たと伝えられる建物です。それは兄弟の間で互いに助け合う気持ちを高めるためでしたが、実は同床異夢で、血で血を洗う骨肉の争いが当時の常でした。 沈香亭とは、楊貴妃が牡丹を観賞するために建てられたものです。唐代、沈香亭の回りには牡丹が沢山植えられ、毎年春になると綺麗な牡丹が鮮やかに競い合って咲いていたそうです。史書によると、牡丹の花は百種類以上あって、一日に何回も色が変わったといいます。その季節になると、玄宗皇帝と楊貴妃は沈香亭で酒を飲み、歌を歌い、花盛りの牡丹を観賞しました。輿に乗って、李白を呼び、詩を作らせたこともありました。 今日、よく詠われている「清平調」という詩はその時に作られた物です。「名花傾国両つながら相喜ぶ、常に君王の笑いを帯びて見るを得たり、春風無限の恨みを解釈し、沈香亭の北欄干に倚る。」名花である牡丹と傾国の美女楊貴妃は共に玄宗皇帝の喜ぶもの、皇帝はいつも笑いを含んで見ていました。李白はこの詩で牡丹と楊貴妃を交互に書き、花即ち人、人即ち花、牡丹の美しさと楊貴妃の艶やかさを重ねて詠んでいました。この建物の材料には沈香木が多く用いられていたため、沈香亭と名付けられました。湖は面積38ヘクタールで、竜池と呼ばれています。湖水は樹木の陰を映して非常に美しい。玄宗は楊貴妃と船に乗り、風景を観賞し、楽しい生活を送ったことは広く伝えられています。長慶軒とは、かつて玄宗皇帝の音楽室でしたが、今は休憩室として使われています。興慶宮は今日、西安最大の講演となり風景秀麗で、昔日の宮殿の雰囲気を演出しています。  目次


阿倍仲麻呂の記念碑 阿倍仲麻呂の記念碑は興慶宮公園にあります。これは、西安と日本の奈良市の友好都市関係締結五周年を記念して、1979年7月1日に立てられたものです。大理石作りの美しい記念碑の高さは6.1m、碑の正面には金文字で「阿倍仲麻呂記念碑」と刻まれ、側面には阿倍仲麻呂が故郷の奈良を偲んで詠んだ望郷詩と当の詩人李白が仲麻呂を哭す詩がそれぞれ掘られています。 阿倍仲麻呂は698年、奈良に生まれ、717年、19才の時、留学生として遣唐使に従って長安に来ました。彼は国子監(大学に相当)で一所懸命勉強し、当時最難関とされていた進士の試験に合格し、唐王朝の官吏となり、752年に今の国立図書館館長に当る職にも就きました。こうして、彼は長安で35年間生活しましたが、祖国日本および親類を偲ばないことはなくて、小倉百人一首で有名な短歌を作りました。「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」仲麻呂は753年6月、玄宗皇帝の指示で唐王朝の身分のまま遣唐使の藤原清河、副使吉備真備と共に長安を離れ、帰国の途につきました同年10月15日、仲麻呂は楊州で鑑真和尚を表敬訪問し、鑑真を日本に誘いました。11月15日、仲麻呂は藤原清河と第一船に、鑑真は第二船に、吉備真備は第三船に、他の碑とは第四船に乗船して蘇州を出発しました。渡航は困難を極め、12月6日沖縄を横切る途中で暴風雨に巻き込まれ、大部分の人が遭難してしまいました。かろうじて生き残ったのは仲麻呂など十数人で、仲麻呂は暴風に任せ、ベトナムに漂流し、中南島に上陸しました。そして、あらゆる困苦辛酸を嘗めながら二年後の天宝十四年六月(755年)に再び長安に戻りました。 この年、安禄山の乱が起こり、その後、彼は玄宗皇帝に従って蜀州へ行き、757年12月、再び玄宗と共に長安に戻りました。その後も唐王朝の高級官僚として長安で活躍し、770年、73才で亡くなりました。

住所: 西安市咸寧西路37号 電話:029−2485373 開放時間:6:30−18:00 入場料:0元

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西安東郊外の観光スポット 

西安華山、西安華山、西安華山、西安華山、西安華山、西安華山、華山、華山、華山、は古来より一本道が特徴で、「華山自古一条路」と言う言葉もあるが、解放軍兵士や薬草を採取する農民たちは次のように語ります。華山登山は玉泉院からスタート。 谷間に沿って20里ほど歩くと、青柯坪に到着。 その東に「回心石」の文字が刻まれた大きな石。 これから先が華山の危険なところ、 この三文字を見て体力の無い者、肝っ玉の小さい者は引き返す。 回心石を過ぎると華山の咽喉、「千尺棟」に着く。 ここは険しい崖の小道で、370段の石段。 両側にロープがあり、ロープを掴んで一歩ずつ登る。 「千尺棟」の幅はとても狭く、下をみると深い井戸。 ここの崖には「太華咽喉 気呑東漏」の文字が刻まれている さらに進むと、もっと険しい「百尺峡」に突き当たる。 その後、仙人橋を通り、一段と険しい「老君犁溝」に至る。 ここは海抜1500m、四方は断崖絶壁で「雲台峰」とも呼ぶ。と華山の険しさの「語り」は続きます。今、華山にはロープウェイが開通し、「天下第一の険」と称される山も観光客に身近になりました。 ロープウェイの高度差は約800mで、華山の美しさを味わうことができます。


崋山の宿泊施設の情報】麓:麓の旅館(スタンダードルーム、200元ぐらい・1間・1泊、シャワー無、旅館にての朝食は別途<崋山の麓のレストランはほとんど観光客向け、崋山の頂上のレストランより安いですが、40元・1名・1度ぐらいも要り>)。夜、崋山に登る場合には、崋山の麓の旅館はお薦め(夕方、崋山の麓に着いて、麓の旅館でちょっと休憩して、夜23時前後、崋山の麓の屋台にて夕食を取って、夜0時前後からほかのお客さん<中国人>と一緒に崋山に登り<登山始まり>、翌日の56時頃、東峰に着く、朝日の出るのを待ちます、朝の崋山の頂上の絶景を見て、ほかの峰<中峰、南峰、西峰>を回って、午前11時前後、徒歩で崋山の北峰までに下り、ロープウェイとカート(崋山の入山入り口からロープウェイの乗り場まで走っている中型バス、崋山遊覧車)で12時前後に崋山の麓に到着)。頂上:東峰山荘(予約必要、特に休日、スタンダードルーム、400元ぐらい・1間・1泊が要り、シャワー無、山荘にての朝食は別途<崋山の麓のレストランより高くて、60元・1名・1度ぐらいが要り>)。朝日の出るのを見る場合にはお薦め。夕方、崋山の麓に着いて、ロープウェイとカート<08:00時〜18:00時までに利用可能>で、21:00時前後に東峰に着く、翌日の朝日の出るまでにお休み、翌日、崋山の雲海<水墨絵が見られ>;西峰山荘(予約必要、スタンダードルーム、500元ぐらい・1間・1泊、シャワー有り、山荘にての朝食は別途<崋山の麓のレストランより高くて、60元・1名・1度ぐらいが必要>、崋山の夕日と夕焼けが見られ)。※雨具や軍手などの装備のご用意は必要<ご備考、崋山にてレーンコート:10元;軍手:1元>。※崋山にて荷物を運んでくれる人がいます(北峰<ロープウェイの乗り場>→崋山の東峰→北峰:200元+50元<赤帽の崋山頂上にての夕食代と宿泊代>;入山入り口→崋山の東峰→北峰:400元+50元<赤帽の崋山の頂上にての夕食代と宿泊代>)

崋山に登る所要時間】8時間、休憩時間別、西安(専用車で1時間半)崋山の麓(下車場)→(7分間)玉泉院→(15分間) 崋山牌房→(5分間)五龍橋切符売り場→(30分間)魚石→(20分間)五里関→(15分間)石門→(25分間)毛女洞→(15分間)雲門→(10分間)回心石→(10分間)千尺憧→(15分間)百尺峡→(25分間)擦耳石→(5分間)天梯→(5分間)御道蒼龍嶺→(25分間)金鎖関→(8分間)五雲峰→(15分間)迎陽洞→(5分間)朝陽峰→(35分間)南天門→(25分間)仰天池→(35分間)西峰→(12分間)中峰→(18分間)蒼龍嶺→(30分間)北峰→(2分間)索道→(ロープウエーで4分間)→(崋山の入山車で20分間)下車場(専用車で1時間半)西安

【崋山の朝日と夕日が見られる時間 】一月:07:42〜07:47、17:45〜18:03;三月:06:35〜07:10、18:35〜18:56;五月:05:29〜05:44、19:08〜19:28;七月:05:31〜05:44、19:44〜19:57;九月:06:15〜06:29、18:04〜19:10;十一月:06:03〜06:24、17:35〜18:47

崋山案内地図<MAP>、崋山概略図 西安金橋国際旅行社の日本語ガイド付き車チャーター崋山風景写真 崋山気温崋山気候

 

住所:華陽市玉泉路 電話:0913−4365086開放時間:東山門7:00−18:00、西山門全日開放  入場料:100元 ケーブルカー料金: 片道55元、往復110元乗車路線:西安駅で観光コース専用バース、または西安ー崋山行きの列車を利用 、秦の始皇帝陵、秦の始皇帝陵、秦の始皇帝陵、秦の始皇帝陵、チャーター車


始皇帝陵はそのスケールが世界第三位、驪山の北麓にある。高さは47m、一見普通の小高い山に見えるが、実は盛り土の墓である。始皇帝は紀元前259年の生まれで、名は瀟政と言う。13歳で即位して、22歳で自ら政務を執った。当時の敵国を次々に滅ぼして、初めて中国を統一した。紀元前210年、巡事中に50歳で病死し、この陵に葬られた。陵の工事は70万の囚人を使い、36年を費やして、ようやく完成した。 盗掘に備え、地下の水脈を掘り抜いて、その下に墓室を作り、地面に銅版を敷き詰め、その上に棺が安置されている。墓室に収められている数多くの宝物を守るために自動発射のできる弓矢が仕掛けられている。更に自然再現のために。墓室の天井には宝石の星を鏤め、床に海と川を模に、水銀を流しているそうである。 住所:西安市臨潼区 電話:029-83912542 開放時間:08:00-17:00 入場料:40元 


西安兵馬俑坑、西安兵馬俑坑、

秦始皇帝陵陵から東へ1.5Kmの地点に、世界八番目の不思議とも呼ばれる兵馬俑がある。1974年3月に旱魃に窮した地元農民が井戸を掘り始めた。2, 3m掘ると変わった陶器の破片が見つかった。考古学者の鑑定によって始皇帝の地下近衛軍団が配置されていることが初めてわかった。この偶然の発見によっ て、地下に2000年も眠っていた、世を驚愕させる兵馬俑がようやく日の目を見た。坑は発掘順序に基づいて一合坑、二号坑、三号坑と名づけられた。  最大の一号坑は長さ230m、幅62m、深さ5m、総面積14260㎡、兵馬俑の数が約6000体、二号坑は6000㎡、俑の数は1000体余り、三号 坑は500㎡、俑の数は58体に過ぎず、規模が一番小さいが、地下軍団の司令部に当たる。一号坑は今なお発掘を続けているが、中は土掘によって区切られ、 上に丸木を掛け、その上にゴザを敷き、表は2mの土によって覆われている。前衛部隊と四周にたっている警備隊に守られ、主力軍は38列に分けられて、東に 向かって整然と列を組んでいる。兵隊俑の平均身長は1.8m、胴体は空洞、下半身は詰まっていて、顔の表情はそれぞれ異なり、身分によって服装もまちまち であり、いずれも手に武器を握っている。一部の俑にはまだ色彩が残っている。馬の高さは1.5mで西域の大宛の馬に似て、足が速いと言われている。 兵馬 俑はこの近くの粘土を材料にして、彫刻などの手法を施し、最後に窯に入れて焼いていた。殉死制度のあった時代に人間に代わって陶製の人形を殉死品とするこ とから、人類文明の進歩を伺うことができる。 始皇帝陵の西側20mのところから発見されたもので、当時実用の車の2分の1のサイズで作られ、併せて二台ある。一号車は先導車で、御者は腰に剣を帯び、 側に弓矢などの兵器を備えている。二号車は温涼車といって、秦の始皇帝の専用車である。二台とも四頭立ての馬車で、豪華を極め、車体に美しい模様が描かれ ている。金銀製の埋めの装身具は1594点が残され、2000年前の金属加工の精密さにも驚かざるを得ない詳しい説明、住所:西安市臨潼区秦始皇陵東側 電話:029-3911961開放時間:08:00−18:00 入場料:65元、乗車路線:西安駅東側306路観光コース専用バスでいける。 華清池,華清池,華清池,華清池,華清池,華清池,華清池,華清池, 楊貴妃 華清池清池は西安から東に30キロ離れた驪山の麓にあります。驪山は海抜1256m、風景秀麗なところで、三千年前の西周時代からの温泉の湯元があります。そ のため、ここは歴代の帝王が享楽に耽った所でした。西周時代末期の周の幽王はここを驪宮として時々愛妃褒似を伴なって酒宴をしていました。秦の始皇帝がこ の温泉に入ったと言う話も広く伝えられています。唐の玄宗皇帝が747年にこの温泉地に造営した本格的な宮殿式建物は「華清宮」と名付けられました。  楊貴妃は傾国の名花として名高く、718年蜀州の官吏楊玄炎の娘として生まれ、名は楊玉環と言います。16歳の時、美人(官名)に選ばれて宮殿に入り、 玄宗の子、寿王の妃となりました。唐の開元二十八年(740年)十月、玄宗皇帝が華清宮に行幸中、宦官の高力士の推薦によって召し出されました。その後、 楊貴妃は女道士となり、太真と称し、太真宮に住みました。官名通りに美人で聡明、その上下歌舞に長じた玉環は玄宗の寵愛を一身に集めました。745年には 皇后に次ぐ高位の貴妃となりました。それ以来、玄宗は毎年秋から翌年春まで楊貴妃と共に華清宮に住み、温泉に入り、歌舞を観賞し、歓楽の日々を送りまし た。また楊貴妃の姉三人は妹のおかげで宮中に入り、まもなく一族の楊国忠が宰相の要職に就き、楊氏は栄華を極めました。  華清宮には玄宗と楊貴妃のために蓮花湯と海棠湯という専用の浴室も造られました。当時の蓮花湯は規模が極めて大きく、大理石で造営し、白い玉石で魚、 竜、雁、蓮の花などの形を彫刻し、十八の浴室を飾りました。特に白い玉石で彫刻された蓮の花は温泉の湯の中で、まるで芙蓉の花が水面に咲いているようだっ とと伝えられています。  飛霜殿は玄宗と楊貴妃が泊まったところで、また、宴会と歌舞に明け暮れていたところでもありました。この殿の南に九竜池があり、昔、温泉の湯が流れ注い でいた池です。玄宗と楊貴妃は飛霜殿の前に立って、池から湯気の立っている風景を観賞しながら、語り合いました。この情景は唐代の風景画にも描かれていま す。  貴妃池とは彼女の専用の浴槽で、蓮の花の形をしています。楊貴妃は入浴してから、飛霞閣に上がって、髪を乾かし、その後、すぐに桐蔭軒で踊りました。玄宗はその入口で惚れ惚れとして眺めていたと言います。  楊貴妃は茘枝が代好きだったので、馬で蜀州から長安に運んだという話があります。600キロも離れている蜀集から三日間で茘枝を運べという命令もありま した。唐代の有名な詩人白楽天は、玄宗と楊貴妃の華清宮におけるロマンスを素材にして長編の叙事詩「長恨歌」を作りました。「春寒くして浴を賜う華清宮、 温泉の見ず滑らかにして凝脂を洗う」  華清宮は現代中国の政治舞台にも輝かしい1ページを飾っています。1936年12月、蒋介石は南京を出発して西安に来ました。その目的は楊虎城の西北軍 と張学良の東北軍による共産党「討伐」が一向に捗らないことに業を煮やし、この二人の将軍を督戦するためでした。蒋介石は華清宮の五間庁に泊まって、12 月12日朝5時、突然の銃声で目を覚まし、着替えもできず、裸のままで窓を乗り越え、山腹に逃走しました。山はらの大きな石の隙間に隠れている時、8時 頃、張学良の護衛兵が発見して捕らえ、西安市の西京招待所に幽閉しました。張学良と楊虎城はさっそく延安にいる毛沢東に電報を打ち、代表団の派遣を要請し ました。毛沢東は周恩来を西安に派遣しました。周恩来は何度も蒋介石と交渉し、その結果第二次「国共合作」が実現しました。五間庁の窓には今も当時の弾痕 が残っています。山腹には記念のため、石造の部屋が建てられ、「兵諌亭」と名付けられました。  現在の華清宮には温泉の湯元が四ヶ所あり、一時間の湧出量は125トンです。温泉は摂氏43度、その名かに石灰、炭酸マンガン、硫酸ナトリウムなどの九種類の有機物質が含まれていて、関節炎や皮膚病に効能があります。  最近発見された唐の太宗皇帝の星辰湯、玄宗皇帝の蓮華湯、楊貴妃の海棠湯などの著名人の浴槽の遺跡の上に古典的な建物が作られました。尚、飛霜殿の前に 立って眺望すれば美しい風景の庭園に広い池があり、朱塗の亭や楼閣、東屋などの唐代の風格を保っている建物が点在し、枝垂れ柳や百日紅の木が茂り、古代にロマンスが偲ばれます。敷地内には一般客が入浴できる天然温泉施設(お風呂)がある、入浴料金:30元〜280元、普通のバスタブがあるし、楊貴妃(楊玉環)のバスタブを真似した玉石製のバスタブもあります。【華清池の温泉の水滑らかに凝脂を洗う】 烽火台 周の幽王は褒似を溺愛したが、一度も笑わないのを苦にしていた。ある日、手違いで外敵侵攻を知らせる烽火が打ち上げられて、四方から駆けつけてきた武将たちが間違いと知ったときに褒似は笑った。 幽王は褒似が笑う顔を見たいがために何度も烽火をあげさせた。 さらに、皇后と太子の宜臼を廃し、褒似とその生んだ伯服を立てようとしたため、皇后の父親申侯は西戎と連合して周を攻めた。急いで烽火をあげたが、虚報に懲りて救援の諸侯は集まらず、幽王は殺され、周は滅亡したと伝えられている。住所:西安市臨潼区華清路38号電話:029−3812003開放時間:07:00−19:00入場料: 70元、乗車路線:西安駅東側306路観光コース専用バスでいける。 鴻門遺跡,鴻門遺跡,鴻門遺跡,鴻門遺跡,鴻門遺跡,鴻門遺跡,鴻門遺跡>鴻門遺跡は始皇帝陵から約六キロ離れた西南に鴻門堡村という小村があり、この村は歴史上に発生した重大事件【鴻門の会】の遺跡の所在地です。鴻門は黄土大地を切り開いた洞窟状の地形です。村人は祖先から何世代もずっと、今に至るまでこの地に住み続けていますが、この黄土大地の姿は変化なく、昔の面影のままです。1984年から鴻門の会の遺跡の発掘調査が行われ、銅剣、矛、建築材料などが出土しました。これらは非常に歴史的価値の高い物で、幕営、項王営、城壁を復元し、展示室も建設されました。幕営の中では項羽と項目は東向き、範増は南向き、張良は西向き、劉邦は北向きに座していますが、張良は樊會を呼びに出かけたので、席は空いています。宴会前に範増は項羽に劉邦を殺すように進言し、この計画を実行するために宴会中ずっと項羽に劉邦を斬るようにと合図を送りましたが、項羽は飲みすぎて意識がありませんでした。仕方なく、範増は項羽の従弟の項荘に剣舞を命じ、項荘は舞いながらチャンスをうかがい劉邦を殺そうとしましたが、項羽の叔父の項伯は劉邦を守るために立ちあがり、項荘とともに舞いはじめました。項荘が劉邦に近づくと項伯は自分の剣で遮り、どうしても斬りつけることができません。この緊迫した状況の中、張良はそっと席を立って軍門に急ぎ、樊會に「今項荘の剣舞は意が沛公にある」と伝えました。樊會は剣と盾を持ち軍門の衛士を突き倒して宴会場に突き進んで行きました。そして、怒りの目で項羽を睨み付けながら劉邦のために弁論しました。その直後、宴会場は殺伐とした空気が張り詰めました。劉邦は張良に自分の中座を詫びるように頼み、用を足すチャンスを利用して、馬に飛び乗って陣営に帰り着きました。残った張良は項羽に「沛公は酔っ払ったため、挨拶が出来ず、項王に白壁一対を、範増に玉斗一対を奉ずるように私に命ぜられた」と伝えました。項羽は受け取った白壁を座席におき、呆気にとられたままでした。範増は怒りのあまり、玉斗を地面に置き、剣で斬り砕き「項王の天かを奪う奴は必ず沛公である」と叫びました。この鴻門の会は楚と漢の天下を賭けた戦いの序幕を引きました。南側の展示室には鴻門の会と関係のある人物連環画、雕塑像、出土品などが展示されています。北側の展示室には項羽、劉邦の関係者の等身像がそれぞれ五つずつ並んでいます。また項王営には城壁、覇王井、虞美人井が復元されています。住所:西安市臨潼区新豊鎮湾鴻門商城南200m 開放時間:7:30ー18:00 入場料:24元  チャーター車

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西安西郊外の観光スポット

乾陵,乾陵,乾陵,乾陵,乾陵,乾陵,乾陵,乾陵,乾陵,乾陵は唐の高宗皇帝李治と女帝武則天の合葬墓である。夫婦とともども皇帝の位につき、二つの王朝を支配し、そして死後同じ陵に埋められるのは歴史上においてごく稀なケースである。陵は西安市北西約80キロ離れる乾県北の梁山に位置し、山を陵として岩を掘って地宮とした。規模は雄大で迫力のある陵は盛んな時代における中国封建王朝の帝王陵の典型的な代表と言える。陵へ通じる司馬道に沿って行けば、翼馬、石獅子、石像、無字碑などの唐の巨大な石彫刻の圭作が見られる。世界の始めての女性皇帝は日本の推古天皇、武則天より300年前。乗車路線:西安市城西バスセンターで長武行きに乗り、乾陵で下車 、入場料:46元,26元(永泰公主墓、乾陵博物館込み)  


中国の楊貴妃のお墓,楊貴妃墓,楊貴妃墓,楊貴妃墓,楊貴妃墓,傾国の名花国の名花楊貴妃の墓は西安から70キロほど離れた興平県の馬嵬坡にあります。彼女は718年に生まれ、756年に亡くなりました。745年に玄宗皇帝の貴妃となり、玄宗は楊貴妃を得てから、毎日酒と歌舞と貴妃の愛に溺れて政務から遠ざかりました。このため、国内情勢は次第に悪化し、政治は窮境に陥りました。755年、勢力を貯えてきた安禄山が叛旗を翻し、所謂「安史の乱」が起こりました。楊貴妃は玄宗皇帝に従って、戦火を避けました。途中、馬嵬坡で近衛兵と指揮官の不満が募り、騒乱が起きました。兵士たちは「窮地に陥ったのは楊一族のせいである」と楊国忠を殺し、さらに、玄宗皇帝に楊貴妃を殺すことを要求しました。玄宗皇帝は兵士たちの激昴の前に涙に暮れながら宦官、高力士に楊貴妃を絞殺せよと命じました。楊貴妃はこの時、寺に入って仏に祈りたいと玄宗に希望し、許可を得た楊貴妃は寺に入って、仏像に面して「一日早く亡くなったら一日早く生まれ変わるようにお願い申し上げる」と祈りました。その直後、楊貴妃は絞殺されました。時に38才。子供もないままに死んだ彼女の一生は「花の命は短くて苦しきことのみおおかりき」という詩の通りでした。玄宗は楊貴妃を簡単に土葬して四川に逃げ、危難を避けました。昔、楊貴妃の墓は土盛りでしたが、墓の土は毎年春に白粉に代わって、香を漂わせました。その白粉を顔に付けると美人になるという噂が広まって、大勢の若い女性がその白粉を欲しがって墓に参りました。このため、2,3年のうちに墓の盛り土がなくなってしまいました。現在の墓は半球状のレンガで覆われていて、墓前に「楊貴妃之墓」の碑があります。楊貴妃の非業の死は人々の心を打ち、以来、歴代の多くの詩人が墓を参拝し、多くの詩を献じました。それらの詩は30基の石碑に刻まれ墓の回廊の壁に収められています。現在、墓地の辺りには門楼が建ち,亭、堂が復元されています。また話で日本の山口県にも楊貴妃のお墓がある。住所:興平市西馬嵬坡 電話:0910−8240024開放時間:8:00−18:00 入場料:20元。 乗車路線:西安市城西バスセンターで興平市行きに乗り、または、タクシーでいける。 


茂陵,茂陵,茂陵,茂陵,茂陵,茂陵,茂陵,茂陵,茂陵,茂陵 武帝劉徹(前156−前87)は漢の第五代皇帝である。紀元前141年、16歳で即位し、紀元前87年、70歳で亡くなった。彼が在位した54年間、政治、軍事、経済などいろいろな分野にわたって効果的な措置を実行し、北方の匈奴を追い払い、河西回廊を確保し、漢民族の国の繁栄をもたらした。そして紀元前138年には張騫を遣わしてシルクロードを開通させた。これは中国と中央アジア諸国との経済、文化の交流にとって画期的な出来事であった。 茂陵は西安から約45キロの渭北高原の興平原に位置する。前漢の皇帝陵の中で最大で、造営の期間も長く、武帝の即位から53年もの長い期間をかけている。陵墓の高さ47m、陵の周囲は916mで、敷地の面積は5400平方mある。陵は錐形をしていて、厳やかな安定感が感じられる。歴史の記録によると、陵墓には外国から送られた玉の箱、玉の杖や武帝が生前に愛読していた本など、いろいろな宝物が入れられたとされている。陵墓には一体どのくらいの宝物があったのかは今となっては不明であるが、当時毎年国の租税の三分の一が墓造りや副葬品の買い入れに用いられていたという記録がある。 茂陵のまわりには約20の陪塚が点在している。これらの陪塚は方形、円形、山形の三種類に分けられ、李夫人、衛青、霍去病、霍光などの皇族や功績のあった大臣の墓がある。 茂陵を管理するために、当時陵令、門吏などの官職が設けてあって約5000人の雑役夫が樹木、草花などに水をやり、掃除をしていた。 当時、漢代の埋葬制度に従って、茂陵の東南の辺りに町を造った。「漢書」の記録によると、おびただしい文官、武官、貴族が相次いでここに移住し始め、町の人口は28万人になった。現在でもこの付近には幾何学模様と青龍、白虎、朱雀、玄武のついた芸術的に高い価値がある「空洞煉瓦」などが出土されているが、昔の建物はひとつも発見されていない。住所:咸陽市五陵原 電話:0910−8418040 開放時間:8:00−18:00 、乗車路線:西安市の玉祥門から咸陽行きの観光バスが利用できる。入場料: 45元 (霍去病墓、茂陵 博物館込み)  


五丈原 五丈原、五丈原 五丈原、五丈原 五丈原、五丈原 五丈原、五丈原 五丈原、渭河のほとりの街、宝鶏の街外れに三国志に度々出てくる渭河が流れている。残念ながら水量が昔ほど多く流れていないが、なにかロマンを感じる処である。 宝鶏から東に向かい、高速道路ができて、1時間ほど来られる。 この辺の地域一帯を「一帯を「五丈原」というが、台地の五丈原には、まず、「諸葛泉」があり、「孔明が水を汲んだ」とされる、神聖かつ由緒ある泉だが、付近ではおばちゃん方が洗濯場として利用している。また、「諸葛亮廟」「諸葛亮祭燈壇瞭望台」などの史跡が残っている  


諸葛孔明のお墓 五丈原、諸葛孔明のお墓 五丈原、諸葛孔明のお墓 五丈原、諸葛孔明のお墓 五丈原、諸葛孔明のお墓 五丈原、諸葛孔明のお墓 五丈原、諸葛孔明のお墓  宝鶏市岐山県所在地の南20キロほどの五丈原にあり、太白山北側を控えている。「岐山県県誌」によれば、諸葛孔明廟は元代の始に造られて、明代と清代になると、何度も増築されたという。その規模はそれほど大きくなく、現存されている建築は、ほとんど清代のもので、廟門、母屋両側の棟、両側の棟、献殿鐘楼、鼓楼、正殿などがあって、そのうち、八角形の屋根がかかっている「八卦亭」が一番目立っている。ここをれると諸葛孔明の姿が覗える。入場料:20元(諸葛孔明廟、諸葛孔明墓、落星石込み)チャーター車       

徐茂公墓 昭陵、昭陵、昭陵、昭陵、昭陵、昭陵、昭陵、昭陵、昭陵、昭陵、昭陵は唐の第二代皇帝李世民の陵墓です。李世民は父の高祖李淵に譲位され、626年に即位しました。翌年、貞観と年号を改めました。在位23年は中国の歴史上での極めて繁栄した時代で「貞観の治」を作り上げました。太宗李世民はモラルの確立を重視し、儒教道徳政治の理想社会を築くことに力を入れました。「民、道に落ちたる物を拾わず、外出戸を閉じず」と言われたほどの平和な「貞観の治」です。昭陵は当時の都長安から80キロくらい離れた九峻山の頂上にあります。九峻山とは9つの険しい峰があることからそう呼ばれていますが、昭陵のある峰は日本の富士山の形に少し似ています。しかし、東側から見ると筆置きの形に似ているので、土地の人々は筆架山と呼んでいます。この山が陵墓の地に選ばれたのにはエピソードがあります。中国各時代の皇帝は誰でも皆陵墓の地をどこに選ぶかを大変重視していました。李世民も例外ではなく、大臣の李助と魏徴を派遣して陵墓の地を選定させました。李助は九峻山に着て、頂上の峰に登り、演技の良い印として穴開き銅銭を埋めました。それからなく魏徴も偶然同じ場所に着て辺り景色を眺め、すっかり気に入って彼の立ったところに縁起の良い印として銭を埋めました。李世民はこの結果に満足し、ここを陵墓の地と決めました。太宗李世民を埋葬した二日目にこの山が一夜のうちに高くなり、以後少しずつ高くなっているという伝説があります。636年、すなわち太宗が即位して10年、文徳皇后長孫氏がなくなったとき、太宗は皇后の「山に埋葬」という遺言によって九峻山に皇后を埋葬し、昭陵と名付けました。それから引き続き造営しました。「山に因って陵を為す」という唐代の帝王陵墓の造りかたの先例となりました。 649年、太宗が亡くなって文徳皇后と合葬されて、これによって陵墓の造営工事は終りました。「山に因って陵を為す」の先例になった昭陵は自然の山(九峻山)を選んで穴を掘って墓室に通じる墓道と峰の底に地下宮殿を造りました。ある資料によると、墓室までの墓道は深さ230mで、墓道に五つの石門が設けられているということです。地下宮殿は広く、華やかで、長安城の宮殿とほとんど変わらず、墓道の両側にはそれぞれ部屋があって、その中に石の箪笥が並べられ、石の箪笥の中に殉葬品の入った鉄の箱が治められているということです。往来の不便を解消するために、岩に沿って桟道を造り、昭陵の上には墓守のために家屋などもあります。千年あまりの変遷を経て、昭陵の地上の建築物はなくなり、今は遺跡が数ヶ所残っているだけです。陵墓の南の山の下に、朱雀門、献門、北に祭壇、司馬門、東西には小さい建物、西南には宮城(当時多くの家屋がここに建てられていた)がありました。宮城の建物は一度火災に遭いましたが、798年に378間の部屋が建て直されたそうです。献殿の遺跡から、高さ150cm、重さ150Kgの陶製のしゃちほこが出土されましたが、この建物の装飾品から当時の宮殿の雄大さと規模が想像できます。昭陵は周囲80キロ、総面積二万ヘクタールあり、陪塚が167ヶ所あるのが昭陵の特徴のひとつとなっています。太宗李世民の柩は陵墓の一番北にあって、長安城の北にあった宮殿と同様、高い所から下を臨むことができます。陪塚の中では唐王朝の繁栄を導いた魏徴、李助、李靖の三人の墓が他の墓と異なった形をしています。李助の墓は陰山、鉄山、鳥徳健山であげた彼の輝かしい業績を記念して、その3つの山の形をしています。この墓の前にはまた一組の石人像があって、左側に石羊、右側に石虎がそれぞれ三体ずつ配置されています。そも墓碑は高さ6.65mで、高宗李治が自ら李助のために墓誌を書き、また自筆したものです。この三人の墓の規模から、彼らの業績と唐王朝の特殊な関係がわかります。また、陪塚の中には西北地区の少数民族の将軍たちの墓もあります。彼らは唐政権の中で重要な職につき、中には唐の皇族と婚姻関係を持ったものもいます。昭陵遺跡にみられるもうひとつの特徴は石刻芸術がリアルな手法で統一されていることです。昭陵は唐の有名な美術家閏立徳のデザインに基づいて造営されたもので、規模や配置などに独特の風格を持っています。「昭陵六駿」のレリーフはその代表的なもののひとつです。六駿とは唐の太宗の愛馬で、この六頭の馬に乗って戦場を駆け巡りました。この六頭の馬は唐王朝の統一の戦いで業績をあげたので、太宗の命によって石に刻まれ、昭陵の北の祭壇に安置されました。馬の姿がそれぞれ異なり、強健でたくました、生き生きとしています。熟練した職工と簡潔な手法で実物を表現し、きわめて高い芸術的価値を持っています。残念ながら、これらの珍しい芸術品は1920年に盗まれ、そのうちの二つはアメリカのフィラデルフィアのペンシルバニア大学博物館に保存されています。残る四つは密輸中に発見されて、西安に運び戻され、現在碑林石刻芸術博物館に展示されています。密輸中にこの六点はいくつかに割れてしまって、現在は馬に射かけられた矢も見えず、レリーフに書かれていた太宗の題字とその馬の名前も見えなくなってしまいました。幸い、北宗の遊師雄が立てた昭陵六駿の石碑がまだ残っていて、それに線刻の手法で、この六駿のレリーフを詳しく、名前、毛色の特徴、功績及び太宗が書いた称賛の全文の記録が六駿の他に安置されていました。唐の時代、墓の前に石碑を立てたり、墓室の中に墓誌銘を安置したりすることが盛んでした。昭陵も同じで、これらの石碑には唐初期のすばらしい書が残されています。その中で、書道に熱心だった太宗の石碑の多くが昭陵博物館に保存されています。また、昭陵から出土した陪葬品は特に数が多く、内容的にも豊富です。石俑、木製俑、陶俑、色釉俑などいろいろあり、そのうち色釉俑は昭陵から出土した文物の特色を代表するものです。唐の時代は、非常に繁栄した時代でした。それに加えて唐の太宗は功績が多く、すばらしい皇帝だったので、彼の陵墓である昭陵は「天下の名陵」と言われています。1961年に国務院は国家重要文化財に指定し、併せて昭陵博物館を建てて、国内外の観光客を新たな顔で迎えています。昭陵博物館住所:礼泉県東北九峻山電話:0910−5767009開放時間:8:00-18:00 入場料:20元昭陵乗車路線:西安駅または西安市城西バスセンターから西安ー礼泉方面行き、それから礼泉ー北屯行きのバスが利用


法門寺、法門寺、法門寺、法門寺、法門寺、法門寺、法門寺、法門寺、法門寺は西安から138キロ離れた扶風県の北にあり、後漢の恒帝と霊帝の時代(147−89)に建立された寺です。寺の境内には塔があって、法門寺はこの寺で有名です。 後漢の時代から北魏の時代、まで、この寺は阿育王(アショカ)寺と称されました。アショカ王は古代インドの国王で釈迦牟天が入寂した200年後、(前272−前226)仏の骨(舎利)を八萬八千四百に分骨して世界各地に塔を建て供養したと伝えられています。中国では19基の仏真身舎利塔が建立されました。法門寺塔はその中で第五基といわれています。 隋の文帝開皇三年(583年)にこの寺は成実道場と改名され、唐の高祖の武徳七年(624年)に法門寺と名付けられました。 法門寺塔は最初四層の木造でしたが、明代に潰れてしまったので、明の神宗は万暦七年(1579年)にこの塔を十三層の煉瓦造りの塔に造り直しました。塔身は高さ54mあります。塔の二層から十二層までそろぞれ各層に八つの仏壇があり、その中にそれぞれ銅製の仏像と菩薩像が一体ないし三体安置されています。合計104尊あり、大部分の仏像は背に文字が刻まれていて、刻銘の内容によって、これらの仏像の奉納者は主に明代の官僚であったことがわかります。仏像のそばに南宋と元の時代の写本の経典と復刻の経典が置かれていました。 清の順治年間(1644−1661)に地震のため、塔が傾き、中に亀裂が生じました。また、1981年8月24日に雨で塔身の側面の半分が倒れたため、1987年1月から塔を修理し始めたところ、4月3日、塔の地下に地宮を発見し、旧暦4月8日、地宮後室で一枚の仏の指の舎利を発見しました。 この指の舎利は八重の宝石箱の最も内側の、第八重目の純金製の小塔の中にある銀柱の上に挿してありました。この八重の宝石箱は、塔の懿宗が奉納したもので、金?銀?珍珠?漢白玉石?白檀などを材料として製作されています。八重の宝石箱の両側には石刻の四天王が舎利を護持するために侍立しています。第二枚の指の舎利は地宮にある漢白玉石製の小塔の中に安置してありました。第三枚は地宮後室にある小龕の中の鉄箱にありました。この鉄箱の上辺に「奉納皇帝敬造釈迦牟尼仏真宝函」と刻まれています。第四枚は地宮の前室にある彩色の菩薩舎利塔の中に安置してありました。これまで、釈迦の指の舎利と称される舎利は四枚発見されていますが、その中の1枚だけが釈迦の本当の指です。これは(霊骨)と呼ばれ、他の3枚は(影骨)です。影骨は霊骨から複製したものですが、仏教の世界では影骨もやはり聖骨で、仏の真身舎利と考えられています。この四枚の指の舎利は世界で始めて発見されたもので、現在も指舎利はこれしか存在しません。祖の他、法門寺塔の地宮からは首の無いガラスの壷、青い釉薬の水差し、純金の糸で刺繍した礼拝用のクッション、真珠の瓔珞を付けた金めっきの菩薩像が掘り出されました。さらに、金銀の器131点、錦、綾、羅、紗などの織物700点、珍珠や宝石400点、ガラスの器17点なども出土しました。皿や碗、瓶は上辺に青、黄、緑、白などの色がつけられ、とても綺麗です。ガラスは西域から中国に伝来したもので、西アジアの特徴があります。これらの珍品の中で純金の「単輪十二環錫杖」は非常に精巧です。法門寺は長い間皇族の御用寺院として歴代の皇帝から崇められました。北魏の時代にその塔の地宮を開いて釈迦の指の舎利を見せたことがあると伝えられています。唐代のほとんどの皇帝が仏教を崇拝し、方門寺の仏骨を何回も宮廷に迎え盛大な行事を行いました。俗伝によれば、法門寺唐の舎利は三十年毎に開帳されたそうです。 しかし、唐代の末期から沈黙しつづけました。その唐の地宮に納められた釈迦牟尼の真身仏骨の舎利や歴代の皇帝が供養した金銀などの宝器は人々には容易に想像できない秘蔵の逸品となっていました。法門寺での発見は国外にも中国文化の栄光を示しました。また、世界に仏教界においても喜ばしい大きな出来事でした。法門寺地身やからの出土品を完全に保存するために法門寺博物館が建られ、今日、博物館で数多くの珍品を見学できます住所: 陜西省宝鶏市扶風県 、 電話: 0917−5254152 入場時間: 8:00−18:00 入場料:28元(法門寺博物館18元) 乗車路線:西安玉祥門外潘家村バスセンターから西安ー扶風方面行きの観光バスが利用できる。チャーター車


楊凌農科城、楊凌農科城、楊凌農科城、楊凌農科城、楊凌農科城、楊凌農科城、楊凌農科城、楊凌農科城昆虫博物館、人工降雨シミュレーションホール、農業科学技術モデルゾーン

乗車路線:城西バスセンターで楊凌行きのバス、または、西安駅で西安ー宝鶏の高速列車が利用できる チャーター車

 

 


陝西省珍稀生動物救護飼養研究センター チャーター車

陝西省西安市周至県楼観台森林公園にある、ジャイアントパンダ、レーサーパンダ、キンシコウ、ターキン、オオサンショウウオ、トキなどがいます。 

鴇、鴇、鴇、鴇、鴇、鴇、鴇、ジャイアントパンダ、ジャイアントパンダ、ジャイアントパンダ、ジャイアントパンダ、ジャイアントパンダ、金絲侯、金絲侯、金絲侯、金絲侯、金絲侯、金絲侯、金絲侯、金絲侯、ターキン、ターキン、ターキン、ターキン、ターキン、ターキン、ターキン、ターキン、レーサーパンダ、レーサーパンダ、レーサーパンダ、レーサーパンダ、レーサーパンダ、

秦始皇帝の阿房宮 チャーター車


白起墓、白起墓、白起墓、白起墓、白起墓、白起墓、白起墓、白起墓、白起墓、秦の白起墓

場所:咸陽市渭城区三姓庄村 住宅地(アパート)の中、アクセス:16路バスで三姓村まで行ける。そこから聞き込みすれば分かる。チャーター車

目次

西安南郊外の観光スポット 

藍田原人遺跡は于県の東南20キロの公王嶺にあります。 1963年5月、中国科学院などによる実地調査隊によって中年女性の原人の頭蓋骨の化石が発掘されました。 頭骨が厚く、額は平らで、眉骨がたくましく、下あごが突き出したこの化石の鑑定の結果、北京原人よりも更に古く、およそ90−100万年前のものであることがわかりました。この化石は藍田原人と名付けられました。 同時に出土した動物の化石が40種類ほどあり、山の斜面には原人展覧ホールがあります乗車路線:西安ー商州行きに乗り、九間房で下車、南へ1キロ行く  入場料:15元  チャーター車


水陸庵、水陸庵、水陸庵、水陸庵、水陸庵、水陸庵、水陸庵、水陸庵、水陸庵、水陸庵、水陸庵は西安の東南50キロの秦嶺の麓にあり、無類の美しさを持ち多種多彩な塑像を所蔵する。 水陸庵は東向きに立てられ、山門内には前殿、中殿、大雄宝殿とその他の建築があり、殆どが明清のものである。この水陸庵は唐代あるいはその前の南北朝時期に創立されたものと見られるが、当時の地上建築は跡形もない。今に残る配置は明の時代のものである。 水陸庵の彩色塑像はきらびやかな上に壮観で、大殿内の南と北の2つの高い壁、殿内正面の仕切りの間の西壁と両側の軒つきの壁の4つの部分からなる。その中で、南北2つの壁の塑像群の面積が最も大きく、精彩を放っている。これらの壁にほどこされた塑像群は連続物語のごとき形式で配置され、南側から北側へと上下に並べて釈迦牟尼の略伝が紹介されている。 人物としては多くの仏と菩薩、飛天と供養者があり、鳥獣としては竜、鳳凰、獅子、象、牛、麒麟などが見られ、景観としては庭園、山河、楼閣や他の家屋などがある。人物像の外観と表情はそれぞれ真に迫り、いずれも個性がはっきり現れている。 これらの壁にほどこされた塑像群は非常に多くの内容を含み、塑像の数も簡単に数えることができないほど多い。住所: 西安市藍田県 電話:029−2925741開放時間:8:00−17:00入場料:5元 乗車路線:西安駅広場で商州、丹鳳方面行きに乗り、藍橋で下車 、入場料:30元  チャーター車


陝西太平峪 陝西太平峪のところ、西安から30キロ離れている。ここの滝の数がわが国最大のもので、大小12箇所滝が見られる。滝の最大落差は百メートル余ある。境内には、険しい岩山が重なり合い、山々が高く聳え、峡谷が交錯している。そして、滝や流れの急な浅瀬も多くあるので、観光客に「北方の九塞溝」と呼ばれている。

乗車線路:戸県林業局ビルデイングに連絡事務所が設置されているが、お客さんは直接公園の連絡事務所に直接にご連絡してください。または、戸県三球儀バス停より戸県石炭工場方面のバスも利用できる。  チャーター車


朱雀国家森林公園 戸県南部、秦嶺の北麓にある。1萬ヘクタールもある森林地帯に位置し、総面積2621ヘクタール。公園は五つの部分に分けられ、105箇所スポットが見られる。中でも、雄壮な氷河翠、珍しい龍潭子、峻険な奇秀峰、秀麗な芦花河、幽玄な秦嶺梁などがそれぞれの特色があり、見る人を楽しませてくれる。夏の最高気温が27度という快適さである。

乗車路線:西安朱雀門または水司バス停から戸県方面のバスに乗り、さらに戸県方面のバスに乗り、さらに戸県朱雀森林公園連絡事務所(人民路交差点100メートル)で乗り換え。チャーター車


兆倫村遺跡、鐘官城遺跡、前漢の貨幣工場 前漢の造幣の中心と見られる陝西兆倫銭鋳造遺跡
西安文物保護修復センターの専門家は最近考古学調査によって、先般陝西省(省は日本の県にあたる)戸県で発見された兆倫漢代銭鋳造遺跡は前漢(紀元前206〜紀元24年)期においてもっとも重要な上林三官の銭鋳造の場所であることを確認した。つまり、漢の武帝の時代(紀元前140〜前87年)の五銖銭の鋳造から王莽の時代(9〜24年)の国の造幣所に至るまでの造幣であった。 兆倫銭鋳造遺跡は戸県と長安県が境を接する所にあり、総面積は約90万平方メートル。昨年末に西安文化財保護センターの専門家姜宝蓮氏、秦建明氏らが発掘をおこなったものを基礎として、さらに調査をすすめた結果、そこで発見された遺物は銭幣、建築部材などのほかに大量の前漢の五銖銭と王莽の時代の多種多様な銭の陶質鋳型であることが分かった。五銖銭、一刀平五千、貨布など13種もあり、その中の無傷のまま発見された陶質鋳型はいずれも五銖銭の裏模様の鋳型であり、ピカピカした裏模様の鋳型と銭の付いている裏鋳型の二種類が見つかっている。 姜氏は、漢の武帝は元鼎四年(紀元前113年)に再び鋳幣権を統一し、上林三官鋳幣制度を正式におし広めるようになったと見られている、と説明した。上林三官五銖銭幣の鋳造は中央機構が統一鋳幣を基礎として行使している官鋳の方法であり、五銖銭は前漢から唐初までずっと使われていた銭でその影響範囲は広かった。 上林三官は上林水衡都尉の管轄のもとに置かれていた。漢の武帝は鋳幣を統一管理し、その鋳幣の工場を皇室の御園である上林苑に設置した。ほかの場所で発見された前漢の銭鋳造遺跡と比べれば、陝西省戸県で発見されたこの遺跡だけはその規模と内容が漢帝国の膨大な経済を運営する上林三官鋳銭所としてふさわしいものである。 この考古学調査の発見から、陶質鋳型の母型のほうにある注ぎ道は突き出たものである、銭文は陽文の楷書であることが分かっている。これは直接銭の鋳造に使うものではなく、銅の鋳型の鋳造に使うものであることと物語っている。また漢代において銭の鋳造が刻銅の鋳型から鋳造の銅鋳型に移り変わり、これは鋳幣技術の改革と進歩を物語るものである。
写真    チャーター車


翠崋山、翠崋山、翠崋山、翠崋山、翠崋山、翠崋山、翠崋山、翠崋山、翠崋山、翠崋山 西安市南20キロ離れ、秦嶺山脈の北麓にある。秀麗な景色や天候に恵まれている山は、珍しい岩、植物、洞窟などを特徴として、峡谷と渓流が美しい絵巻を織り成す峡谷と渓流、珍しい植物が見ものである。山崩れの地域は5.2平方キロあり、その地質は規模と状態から見ればわが国最大ものである。2002年新開発のスポット翳芳湲は水が豊かで美しく、境内はほとんど人口による破壊もなく自然そのままの姿が保たれている。

乗車路線:西安市大南門外体育館、長安路、韋曲から西安ー翠崋山行きの観光バスで直行できる、入場料:70元 チャーター車


興教寺、興教寺、興教寺、興教寺、興教寺、興教寺、興教寺、興教寺、興教寺は西安から20キロ離れた長安県の少な陵原にあり、近くに樊川を望み、神禾原を隔てて、遠く終南山を眺望する高台にあります。この寺 も『西遊記』ゆかりの唐代高僧、玄奘(三蔵)法師の遺骨を移葬し、供養するために、唐の第三代皇帝高宗によって総章二年(669年)に建立された有名な寺です。玄奘(三蔵)法師は唐の麟徳元年(664年)に入寂しました。当時、玄奘(三蔵)法師の遺骨は西安東郊外の東鹿原に埋葬されていましたが、あまりにも皇身やに近く、それを見るたびに心を痛めた高宗皇帝は総章二年になって樊川少陵原のこの地に改葬しました。その後、唐の粛宗皇帝李亨がこの寺に参拝した際に「興教」という題字を書いて掲げたので、以来、この寺は興教寺と呼ばれるようになりました。 境内には玄奘(三蔵)法師の墓塔を中央に、その高弟の窮基(西遊記の人物、猪八戒)の墓塔と円測(朝鮮人、西遊記の人物、沙悟浄)の墓塔が左右に立っています。二人の高弟の塔は恩師に会釈するかのように少し前傾しています。この寺は三基の舎利塔があるため、名高く、また、樊川八大寺院としても知られます。当時は寺に立派な塔、殿、堂、楼などが建立されて美しい寺でした。しかし、100年ほど前に、戦乱のため、三基の塔を残して。ほかの堂、殿などはすべて焼失しました。その際、粛宗の書いた興教の扁額も焼失しましたが、その後、再度にわたる修理が行われました。この時、清の光緒帝時代の政治家である康有為が書いた「興教寺」の扁額が掲げられて。今日に至っています。この書は「有為」が朱書になっています。 今日では木立に囲まれた静寂な境内に高さ23mの玄奘舎利塔をはじめ、大雄宝殿、法堂、蔵経楼などの伽藍があり、美しいたたずまいとなっています。大雄宝殿には本尊釈迦如来坐像があります。この金銅仏像は清代のもので、台座は三種の千体仏でできた珍しいものです。また、この中に多くの仏像が祀られています。法銅の須弥壇には、まず本尊の前に安置されている高さ30cmの小さな清代の白玉仏があります。釈迦三尊は上下二段があり、上段は明代のもので、この寺で最も古い像です。また。西方三聖像、観音菩薩像、清代の彩色仏画と中国仏教八大宗派の歴史の説明書もあります。蔵経楼は二層の建物で、その二階には宋代に印刷された一万巻近くの大蔵経などの仏典が納められています。住所:西安市長安県社曲少陵原 電話:029−5937335 開放時間:8:00−17:00 入場料:15元 乗車路線:直行する57路バス、または、南門の始発で215路、219路に乗り、長安区で乗り換える。チャーター車


香積寺、香積寺、香積寺、香積寺、香積寺、香積寺、香積寺、香積寺、香積寺は西安の南約17キロの長安県神禾原にあります。この寺は仏教浄土宗の第二世善導法師を祭るために建てたもので、境内には善導法師の舎利塔があります。この寺は浄土宗の発祥の地とみなされています。 寺の建立は唐の中宗の神龍二年(706年)善導の弟子の懐[リッシンヘンの軍]によりものです。「天竺に衆香の国あり、仏の名は香積なり」という伝承によって「香積寺」と名付けられたのは善導法師が香積仏に例えたためです。この寺を詠った唐の詩人王維の「香積寺に過ぶ」はあまりにも有名です。「香積寺を知らず、数里にして雲峰に入る。古木碑と径無く、深山いずこの鐘か、泉声は危石にむせび、日の色は青松に冷えかなり、薄暮空潭の曲、安禅毒龍を制す」   この香積寺を包む神秘的で奥深い南山の自然が目に浮かびます。 唐代以後の長い歴史の中で、この寺も激しい変遷を経てきました。寺の名が北宋の時に「開利寺」と変わったばかりでなく、建物も長い年月を経てほとんど倒壊してしまいました。現在残っている唐代のものは善導法師の舎利塔のみです。この塔は高さ33m、11層の煉瓦造りで、本来は13層あったと伝えられており、風化されて今のようになりました。その精巧で美しい彫刻から、当時の人々の仏教への厚い信仰を読み取ることができます。時代が下がって清の乾隆年間には、この塔の四面に「金剛経」が楷書で刻まれ、塔門には「涅槃盛事」という四文字の額が石刻ではめ込まれています。 香積寺は唐代に非常に栄えた時期がありました。当時、懐軍和尚は全国から僧侶を招き、盛大な法事を行い、則天武后や中宋も何度も香積寺を参拝しました。 そもそも浄土宗は東晋の時、天竺から中国に伝わって来たので中国における創始者は慧遠で、浄土宗の体系を受け継ぎ完成させたのは善導法師です。ですから、善導法師は第二世始祖と尊ばれ、実際の創始者とみなされています。  善導法師は613年生まれ、俗名を朱と言い、今の山東省の出身で、幼い頃に出家しました。645年、善導法師は唐の都長安に移り、しばしば長安城にある光明寺(今の西北大学敷地内)で教義を広めました。彼は全力を浄土宗念仏法門の研究に尽くし、【阿弥陀仏経】一万巻を書き上げました。また、【感無量寿経疎】をはじめ、多くの書を著わし、浄土法門の教相と教義を明らかにしました。浄土宗は「阿弥陀仏」という遥かな悲願を一身に託し、ひたすら念仏を唱えて死後の極楽往生を目指します。「阿弥陀仏」というのは梵語で、無限の光明、無限の寿命、無限の智恵という意味です。  日本の浄土宗の開祖、法然上人は善導の継承者として「三国七高祖」の一人です。法然によって、香積寺は日本の浄土宗信者の発祥地となりました。日中国交回復後、日本の浄土宗信者を始め、各界から続々と香積寺に参拝し、善導塔、大殿の修築、改築も急ピッチに進みました。日本から贈られた善導法師像は新築された大殿に安置されています。今、香積寺は単に浄土宗の発祥地としてだけででなく、日中両国いの友好の絆としての役割も果たしています。開放時間:8:00−17:00 入場料:20元 乗車路線:西安市体育館より西安ー韋曲行きのマイクロバスに乗り、韋曲で乗り換え。チャーター車


南五台山 秦嶺山脈北麓の中段、西安市長安区五大郷にあり、市から25キロ離れている。山には観音、文殊、清涼、れい応、舎身5台と五つの峰画あるので五台と呼ばれるようになった。わが国の仏教聖地の一つとして、境内には高く聳える古い木がおおく、周りに山山が幾重も重なり合い、寺の殿堂が雄大で荘厳な雰囲気に包まれている。乗車線路:南門外または南鰺梢門交差点西側より終南山方面の観光バスが利用できる。チャーター車


甘肅省のクマラジュ塔、甘肅省のクマラジュ塔、甘肅省のクマラジュ塔、

甘肅省のクマラジュ塔

草堂寺、草堂寺、草堂寺、草堂寺、草堂寺、草堂寺、草堂寺、草堂寺、草堂寺、草堂寺、草堂寺、草堂寺、草堂寺、草堂寺、草堂寺、

草堂寺は西安城の西南、秦嶺山脈の北の麓にあり、西安市から役50キロ離れています。 草堂寺の建立は東晋、十六国に遡ります。この寺は後秦の皇、姚興のために造営した逍遥園を基礎として修理し、建てられたもので、唐代の宣宗大中九年(855年)のことでした。後秦の欧、姚興は弘治三年(401年)に当時の涼州(現在の武威)に滞在していたインドの高僧クマラジュを国師として長安に迎え、逍遥園の住まわせました。クマラジュは長安に持ってきた多くのサンスクリット経典を逍遥園で姚興及び三千人の弟子と一緒に漢語に翻訳し、校正しました。また、クマラジュは仏教の小乗学、大乗学を明らかにしました。従来の中国仏教は後漢に明帝の時代に伝来したもので、その法教理も決まっていませんでしたが、クマラジュは仏教教理を漢語の経文によって明確に仏法論理として成立させました。この経典は合計97部125巻に及び、古代中国に最も早く輸入された大量の外国書籍の翻訳でした。そのため、のちの唐の皇帝太宗李世民はクマラジュの偉業を称えて、「十萬流沙来たり振錫、三千弟子共に訳経す」と書きました。 彼は弘治十五年(413年)に入寂しました。70歳でした。 彼は中国の本格的な仏教を伝えた僧です。彼の死後、草堂寺に堂宇とクマラジュ舎利塔を建立し、彼の骨灰を奉納しました。舎利塔は乳黄色の大理石造りで、高さ2.33m、八面十二層です。このため、八宝石塔とも称されます。塔身には精巧な浮彫りの紋飾りがあり、1500年を経た今、貴重な史実の証として珍重されています。寺内の殿宇は後年の建物ですが、両側の回廊の壁に二十基の石碑が嵌められています。最も有名なものは第二門の前、碑亭の中に立っている石碑(定慧禅師伝法碑)です。これは唐代の書道家柳公権の篆書です。また、境内には老木が多く、井戸が1つ残っています。唐代にこの井戸から煙が立ちあがり、地上から天上まで繋がって空に漂い浮かんでいたと言います。 そのため、古くから伝えられる「草堂煙霧」は長安八景のひとつに数えられています。乗車路線:西安バスセンター(水司)から西安ー戸県方面のバスに乗り、戸県で乗り換え住所:西安市戸県 電話:029−4951437 開放時間:8:00−18:00、 入場料:15元  チャーター車


重陽宮 戸県西のところにあり、交通の便がいい。道教全真派教祖王重陽の修練、埋骨の地である、わが国道教の三大発祥地の一つである重陽宮は「全真派聖地」と称されている。乗車路線:西安バスセンター(水司)から西安ー戸県方面のバスに乗り、戸県で乗り換え、入場料:10元


東韓農民たちの作品、東韓農民たちの作品、東韓農民たちの作品、東韓農民たちの作品、東韓農民たちの作品、陝西東韓農民画荘 西安市戸県にあり、高通の便がいい。村人が数数の農民がを描いたところで名を内外に知られている。優れた絵や細工巧みな農民芸術品などは観光客たちの注目を浴びている。

乗車路線:朱雀バスセンターまたは、農慶路停から西安ー戸県方面のバスに乗り、下車後、城北部へ向かう。 チャーター車

  東韓農民たちの作品


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西安北郊外の観光スポット

韓城党家村民居、韓城党家村民居、韓城党家村民居、韓城党家村民居、韓城党家村民居、韓城党家村民居、韓城党家村民居は韓城北東9キロのところにあり、村には600年前につくられた100の四合院宿りでがよく保存されており、秘密の通路が入った建物や村の族譜や村史も数多く残しており、東方の伝統的な民家の生き化石と専門家たちに賞賛されている。チャーター車

乗車路線:西安市城東バスセンターで西安ー韓城行きのバス、それから韓城から各スポットへのバスを利用できる、入場料:30元


洛川民俗博物館の前身は洛川県博物館で、1991年に元の館を改築して、1993年に正式にオープンした。 洛川民俗博物館は洛川県鳳栖鎮北新街、隣の西延公路があり、清朝四合院(旧式の家)の民家をまねた建築で、その風格は陝北山崖の洞穴式住居と関中の農村青れんがの瓦ぶき家のようである。 建物の周りは民俗吉祥デザインで装飾され、精巧に作られた民間の木彫り、石刻、レンガの彫り物などの伝統の技芸があり、民族の息吹を感じる。 洛川民俗博物館では陝西北部の黄土の高原に代々伝わる民俗資料、伝統文化を収集、研究している。 建物の外観と陳列物がうまく調和しており、家屋のひとつひとつが陳列室になっており、大量の貴重な宝物を使ってで民間の冠婚葬祭、誕生日祝い、家教俗規、民間祭祀、祝日の娯楽、社火など多彩な民俗風習を再現している。 各展示室は独立しているが、それぞれが連携していて、陝西北部高原の古くて素朴な風情の絵巻を構成している。 現在、約2000点の民族文化財、約1000点の歴史文化財、洛川の略史、石刻、書画が陳列されている。 洛川民俗博物館はその特有の風格と個性によって、陝西省の博物館の中で異彩を放っている。乗車路線:西安市城東バスセンターで合陽行きに乗り。入場料:10元


合陽洛川湿地は合陽県城東23キロ離れる処にあり、景色が美しいことから小江南という愛称もある。乗車路線:同上  チャーター車


漢陽景帝劉徹(前188−前141)は文帝の子で母は竇皇后。前157年、32歳のときに皇帝となった。16年間在位し、前141年に未央宮で亡くなると陽陵に葬られた。 文帝、景帝時代の約40年間は政治は安定し、社会も持続的に発展していたので後に「文景の制」と称えられた。 景帝は在位中に「与民休息」政策を実行し、農業を奨励し、産業を発展させた。 御史大夫の晁錯の建議によって「削潘」を実行し、「呉楚七国の乱」を平定すると中央集権体制を強化して政権を確固のものとした。 漢景帝陽丘陵は咸陽市の東部の渭城区正陽郷張家湾の北、咸陽にある9つの前漢帝陵の中で最も東、西安から22キロメートルの場所にある。 陽陵は漢景帝と皇后の夫婦を合葬した陵園で、帝陵は西、皇后陵は東にあり、その間隔は400メートル。陵墓は4角錐台形の“覆斗形”を呈する。 現在、4つの坑から陶俑300体、木車と鉄器、農機具、貨幣が数百発掘されている。 陶俑の体形は細長くて、均整がとれており、形や表情は一様でなく、年齢や性格の違いがはっきり現れており、写実的で優れた芸術品である。漢陽陵博物館入場料:90元(15分間ぐらいのレーザー映画、10元込み、漢陽陵地上陳列館と漢陽陵地下博物館、二つ部分になっております、所要見学時間:1時間半)開放時間:8:30−17:00、乗車路線: 大唐芙蓉園から遊4路バスが漢陽陵直行チャーター車

漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、 漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、漢陽陵博物館、


唐代長安城大明宮  唐代(618-907年)の長安城は隋代初年に当たる西暦582年に創建され、唐朝建国の後も首都として踏襲されました。都市の規模は大きく、高い城壁と華麗な宮殿区に官庁街、そして整然と区画された通りがありました。唐の長安城は東西9721メートル、南北8652メートルで、面積は約90平方キロ。 100万の人々でひしめきあう国際的大都会として隆盛を極め、後世と外国におおきな影響を与えました。西暦904年、唐は洛陽に遷都し、長安は首都の地位を失い、衰退していきました。
長安城の中央北部に、皇帝の居住区である宮城と、官衙、役所が並ぶ皇城がありました。建国当初、皇帝は宮城内に住んでいましたが、654年に太宗李世民は父である李淵のために、長安城の北東部に大明宮の造営を始めました。その後、663年に高宗李治が大規模な造営を行い、そして太極宮から大明宮に朝政を遷しました。その時から大明宮は唐朝の政治的中心となりました。
大明宮は含元殿、宣政殿、紫宸殿という3つの正殿によりなる政務区と、その後ろの太液池を中心とする居住区との二つの部分により構成され、長安城の三つの大型宮殿の中で最大規模のものであり、唐の政治的中心でした。
大明宮含元殿 含元殿は大明宮の一番目の正殿であり、662年に含元殿の造営が始められ、翌年に落成し、その後、223年にわたって使用されました。大明宮の主殿である含元殿は、国家的儀式や大典が行われた場所であり、元日、冬至の式典、外国使節団の謁見(えっけん)及び改元、即位、受賞、大赦(たいしゃ)、閲兵(えっぺい)等の諸儀式、大典(たいてん)はここで挙行(きょこう)されました。
含元殿の建物は、788年正月の大地震の後も、地震、大風、大雨などの自然災害に度々見舞われ、その度ごとに修復を重ねました。唐大末期に長安城は幾度かの戦火に見舞われましたが、886年頃に兵火によってついに失われました。  
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龍尾道の発見は、含元殿をモデルにした日本の平城宮の大極殿が両側から登る形式であった謎を解いたことになります ♂(もっと見る

 唐代長安城大明宮含元殿遺跡


皇帝陵 皇陵県北1キロの橋山の上にあり、西安から200キロ離れ、中華民族の始祖軒轅皇帝の陵である。チャーター車


黄河壺口滝、黄河壺口滝、黄河壺口滝、黄河壺口滝、黄河壺口滝、黄河壺口滝、黄河壺口滝 宜川県工業区48キロの壺口郷にある。黄河一の大滝で、貴州省黄黄河壺口滝 宜川県工業区48キロの壺口郷にある。黄河一の大滝で、貴州省黄果樹滝につぐ二番目に大きいものである。乗車路線:西安または延安より乗車、宜川でバスに乗り換え。チャーター車


楡林紅石峡 楡林城北3000メートルのところ、峡谷の長さは350メートル、東西に険しい山が向かい合い、きれいに澄んでいる渓流が流れ、その岸には柳が枝垂れている。または陝西省最大の摩岩彫刻もここにある。乗車路線:西安駅広場より西安ー楡林行きに乗り、終点で西包国道入り口からマイクロバスが利用できる。チャーター車


楡林紅jianlao(淡水湖) 陝西省神木県北西部、楡林紅はモンゴル族の言葉で、水溜り、湖の意。面積67平方キロ、中国最大の砂漠淡水湖。

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西安周辺地域のお勧め観光スポット 

四川

黄龍 四川省北阿baチベット族、チャン族自治区州松藩県にあり、黄龍、丹雲峡、雪宝頂、雪山梁、紅心岩の五つに分ける。「聖地仙境、地上極楽」と喩えられている。


山西

山西運城塩湖  中国の「死海」とも言われ、西安から車で只3時間、塩湖に浮かぶ趣を楽しめる。


寧夏

寧夏銀川沙湖 南56キロのところが銀川、江南水郷の秀麗と砂漠の壮大を一つにしたもの。南の砂漠の砂はゴールドに輝き、北の湖はまた青々として潤っている。ここは鳥の天国、魚の世界、観光客の楽園となっている。


甘粛  甘粛省の写真

蘭州市(ランシュウ シ)甘粛省の省都、蘭州は西安の北西約600km、海抜1500m、省の東部に位置します、青海省に源を発した黄河が始めて通過する大都市で、黄河の両岸に沿って発達してきました。黄河から西を河西地方という。河西地方は地形が細く長いため、河西回廊、または河西走廊と言われている。従って今回のコースは河西回廊の旅とも言えるのです。現在は中国西北部最大の工業都市にまで発展した蘭州であるが素朴な郊外の風景とギャップが私達の目を驚かすことでしょう。漢族のほかに回族、満州族、チベット族、モンゴル族など40以上の民族が進んでおり、様々な文化や風俗の違いは見ていて楽しい。


湖南

湖南張家界 湖南省の北西部にあり、張家界国家森林公園、索渓峪自然保護区、天子山自然保護区の三つからなる武陵園景観の中心スポットである。境内に山、林、洞窟、湖、滝があり、その珍奇、秀麗、幽玄、野生、峻険の景色が人々を魅了する。「五歩おきにスポットがあり、十歩進めば、別世界に入ったように景色がかわる」と言われているが、「天下一の奇山」 「中国山水画の原本」と喩えられている。


湖北

湖北武当山 湖北十堰市南にあり、古くからの名山である。湖北省の中部にあるため、北は秦嶺山脈に通じ、南は巴山につながる。起伏する山々は400キロ遠く続く。宋の書道家米fuはかつて「第一山」と字を題したという。

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新たに登場する西安観光スポット 

大雁塔北広場  名高い大雁塔の周辺にある、北は雁塔路南端に通じ、南は大慈恩寺の北壁に接し、東には広場東路、西には広場西路があり、長さは東西480メートル、南北350メートル、敷地面積252畝、噴水や文化広場、庭園、文化ギャラリー、観光ビジネス施設などが設けられている。建築面積は11万平方メートル、建設資金投入額は約4億元。大雁塔北広場は2003年12月31日にオープンしたのだった。大雁塔北広場の完成は、大雁塔周辺にある観光施設の充実をはかり、各地からお客様にゆっくり大雁塔の歴史や文化を玩味したりくっろいたりする場所を用意してくれる。また、この広場は大雁塔の最も明るい親近な窓口として大雁塔の輝かしい文化と伝統を引き立て、更に西安の対外宣伝の発信地としての役割も期待でき、これから、中国の名物広場として注目を浴びるだろう。


御苑林暇村 西安市長安区秦嶺北の生態観光ゾーンにある。西は黄峪から、東は子午峪までである。市内から28キロ離れ、敷地面積は5818畝、秦嶺野生動物園、園芸博覧園、生態技術園、総合サービスエリアからなっている。


西安秦嶺野生動物園は野生動物を保護する地で、勉強や研究、園芸鑑賞などがある、自然、清新、素朴を旨として、動物の群れの存続を考え、動物達を柵や籠、欄の中に入れたり、また自然の状態で放し飼いをしたり、動物と自然との調合を図っている。周りの動植物の環境を尊重しながら、秦嶺の特色を生かしたこの園では自然に帰ると言うことが最大限に生かされ、ありのままの姿を思う存分に堪能でき、自然の趣を味わうことができる。


園芸博覧園は、西安の歴代の王朝を代表する庭園や、15の国際友好都市との厚誼を表し、世界第五大古都それぞれの時期の庭園とその風格を吸収したものである。庭園の建築物と名花名園、珍しい石の奇石館、植物の根を題とする根芸館、文化芸術館などがあり、世界における庭園文化の精粋を展示している。


生態技術園は秦巴山地の野生植物の絶滅を防ぐため様々な栽培実験をしたり植物資源の応用を研究したりしている。と同時に、植物や自然保護の宣伝や教育が行われる。ここは自然文化の豊かな地で、研究や学術的考察、自然観光、休暇をすごすのに適切な地である。


陝西省自然博物館は中国西北地区で唯一の大型総合自然博物館、500万年前の黄河ステゴドン象の化石などが展示されている。全館の建築面積は1万6000平方メートルで、科学技術展示館と自然展示館の二つに分かれている。音や光、映像、写真、文章などで説明し、実物、標本、模型などを数多く展示している。館内のホールには古代動植物の化石や貴重な野生動植物の標本が数多く展示され、また自然現象や現代科学技術、生命の神秘などについて楽しく学べるようになっている。陝西自然博物館は1998年に陝西省人民政府が認可した公益事業機関で、陝西省投資集団公司が建設。科学や自然の知識普及をはかり、市民の文化娯楽生活を豊かにすることを目的としている。


大唐芙蓉園は2005年4月にオープンし、西北地区の最大な文化テーマパークです。敷地面積は67ヘクタールとしています、その中に、水面は20ヘクタールで、総投資額は13臆元です。元唐代芙蓉園遺跡の北に建設され、その中に、楼閣、湖、園林、劇院、唐の街等数多い景観を含みます。世界最大の水幕映画、戸外香花プロジェクト、唐代建築を有し、中国の初めて全面的に盛唐の風貌を展示する大規模な皇室の庭園式文化のテーマバークです。


漢中、漢中、漢中、漢中、漢中、漢中、漢中、漢中、漢中、漢中、隠れている中国密境三国志故地漢中漢中地理:漢中は、孤立した盆地になっていて、陜西省の南西部に位置し、甘粛省と四川省に隣接している。北は秦嶺山脈で西安など渭水盆地(関中平原)と、南は大巴山脈で重慶など四川盆地(巴蜀)と隔てられている。長江支流の漢水が東西に流れていて、東に下ると長江流域へ出、西へ上ると甘粛省の天水付近へ出る。中部は漢水やその支流の褒水・胥水などが流れる肥沃な盆地であり、漢水の中程にあるので「漢中」と名付けられたと伝えられている。経済的には豊かな土地ではないものの、北は関中、南は巴蜀、東は漢水を下って長江流域に出られることから交通の要所であり、関中や巴蜀を支配する勢力にとっては漢中を押える事は軍事的に重要であった。漢中資源 :漢中は気候が穏やかで、万物の精華を集め、古くから「西北の小江南」と美称されている、地上にも地下にも豊かな資源がある。薬用植物は1300種類あり「天然薬庫」と称される。特に、天麻、西洋参などは有名である。また、杜仲は全国第2の産地である。その他、野生動物は360種類おり、その内、42種類の希少動物がいる。特に、ジャイアントパンダやトキ、金絲猴は「稀世の宝」と世界中に知られている。陝西省漢中市は中国のちょうど中央に位置し、西安市との間に連なる秦嶺山脈はパンダの生息地として有名ですし、漢中市に属する洋県は朱鷺の生息地としても知られています。現在新潟県佐渡で飼育されている朱鷺も、洋県の朱鷺センターから贈られました。漢中の歴史 :秦が滅んだ後は、前漢次代の高祖――劉邦は項羽に関中から漢中へ追い出されて、この漢中の中で韓信を見出し、漢中を基盤として桟道を築き、食料を蓄え、次々に中原(現在の西安)を手中に収め、最後は前漢王朝を築き中国を統一した。そして、国の名を「漢」と付けた、現在の漢民族や漢字などの名称もこれにちなんでいる。三国時代には張魯が南鄭を漢寧と改名して独自の王国を築き上げ、益州の牧であった劉焉と対立していた。後に張魯は、魏の曹操に降伏する。曹操は南鄭の呼称に戻して夏侯淵を駐屯させるが、蜀の黄忠率いる劉備軍に大敗し、劉備の所有する領土となる。漢中を支配した劉備は漢中王に即位し、後漢が滅ぶと漢の皇帝として即位した。劉備の死後は、三国時代の有名な人物丞相諸葛亮が 漢中に駐屯し、北伐の拠点として、宿敵・魏を撃つべく北へ進軍をするのも、漢中から桟道を伝ってのことである。最後は漢中の定軍山に埋葬された。玄宗皇帝が安禄山の乱を避け四川へ下る時に通るのもこの桟道である。そのなどで、漢中市は、はるか悠久の歴史を持ち、国家レベルの歴史文化名城(都市)と称されている。漢中市の魅力 :長い歴史に裏付けられた遺跡の数々です。三国志で活躍する軍師(参謀)諸葛孔明の墓地や、実際に見て奇跡のような道である桟道(山の中を流れてる褒河に沿って断崖に穴を穿つ、その穿つた穴に柱を差し込む、その差し込んだ柱の上に板を敷く。何ともうまく考えられた桟道である。宝鶏から漢中に至る間の桟道の長さは235キロという。)、書道のお手本である書法原本石門13品、素朴な地元人、皇帝も食した美味しい漢中料理(キクラゲ、キノコなどの料理が多く)など、ほかの喧噪の著名観光地よりも、落ち着くようなリゾート地である。中国大陸は北に黄河があり、南に長江がある。これが二大水系。秦嶺山脈はこの二大水系の分水嶺である。山の北の河は黄河に注ぎ、南の河は長江に注ぐ。 西安から漢中への旅はこの二大水系をひとまたぎするスケールの大きな旅である。そのスケールの大きさの中に、桟道があり、桟道をめぐる歴史がある。心に染みる旅であった 。漢中市の人口面積:漢中市の人口は376万人、面積は2.7万平方キロメートルもあります。面積は四国より広く、ほとんど山間地です。漢中への道(交通、アクセス):古来、関中(陝西西安)と漢中、四川を結んできた唯一の道が桟道である、馬と荷車が山道を越えることはできない、途中、谷底に落ちた者の数も知れない。建国(中華人民共和国)後、西安から宝鶏まで車で2時間、宝鶏から夜行列車で7時間半、秦嶺山脈の険阻を避け、ぐるりと大回りしなければならないそうである。昨年(2007年)10月には秦嶺山脈を貫通して高速道路が完成し、西安から漢中へチャーター車で日帰りも可能になりました(片道3時間で西安・漢中間を結びました)。または夜行列車(21:05時〜翌日08:41時、片道乗車時間:11時36分間)、高速道路利用の超距離バス(片道、車に乗る時間:8時間)で、西安から漢中へ短時間で行けることになった。

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休日を過ごしの 西安観光コース 

西安亜健国際ゴルフクラブ  ゴルフ場を主体とし、休暇の娯楽施設や宿泊の別荘山庄が揃えている西北地区初の一流のゴルフ休暇村である。西安市南西部の戸県草堂観光地域内に位置している。風景が秀麗で南に高く聳える終南山があり、北には仏教聖地の草堂寺がたっている。敷地総面積は866667平方メートル。チャーター車


西安国際ゴルフグラブ  西安市北郊外の現代農業開発区にあり、豪華会所、ゴルフ練習場、テニスコード、ブールからなっている。市内からバスで18分、空路まで20分という便利な立地である。また、空気も新鮮で周辺環境は静かで綺麗。東に未央湖があり、北に渭河がながれて、都会の喧しさから離れている。まさに恵まれているといえる。チャーター車


新桃花園休暇山荘 西安市北郊外草灘鎮にあり、観光や休暇すごし、食事、宿泊、娯楽、つり、スポーツなどの施設を備えている休暇山庄である。乗車路線:市内から18路、600路、602路、509路、310路、バスに乗り、新桃花園休暇山荘で下車。チャーター車


東晋桃花園 西安市現代農業総合開発区上稷路中段1号。周りは葉田園風景、見物は菜のの花、麦畑、花畑、豚や犬、牛、羊、馬、ダチョウ、魚、はとなど。乗車路線:市内から18路、600路、602路、238路、901路、バスに乗り、東晋桃花園で下車。チャーター車


渭水園温泉休暇村 西安市現代農業総合開発区(もと草灘農場)にある、食事、宿泊、娯楽;動植物、飼育栽培をあつめる西安最大の休暇施設である。乗車路線;鐘楼から238バスで直行。チャーター車


西安鯨魚湖(溝)休暇山荘 白鹿高台地溝中段にある。宿泊の客室、食事、娯楽、遊覧船からなっている。休暇すごしや観光のよい場所である。乗車路線:南門亜童夢国の向かいで西安ー安村のマイクロバスに乗り、狄寨鎮役所で下車、または西京医院の向かいで240ろバスで終点まで乗る。下車後、50メートルのところに山荘の連絡口でスタッフが無料の送迎を用意してくれる。チャーター車


西安市東大娯楽休暇園 つり、観光、食事、宿泊、娯楽、を一度に楽しめる観光休暇施設である。西安南30キロ離れる東大観光温泉開発区に位置し、山や渓流があり、交通の便もいい。乗車路線:西安市水司から西安ー東大行きのマイクロバスにのり、東大観光温泉開発 区で下車。


湯浴湖森林公園 藍田県湯浴鎮にある。宿泊、風味料理、ボート、つり、ビーチなどの施設があり、楽しい休日をすごす適地である。

乗車路線:大雁塔バスセンターで湯浴鎮行きで直行。チャーター車


常寧宮休暇山庄 長安城区南5キロのところ、関中四大高 補地の一つだった神禾台地にあり、南に終南山が見え、北に都の長安が一望できる。風景が美しく交通の便がよい、。食事、娯楽、宿泊、休暇、観光の施設である。乗車路線:南門体育館停留所で215、229で行ける。チャーター車


千子蓮、百草堂の足のケア 千子蓮の足マッサージは敦煌漢方医の配合処方を整理・研究した上で考え出したものである。ホログラフィー胚反射という理論のもとに、独自で研究開発した足反射区の健康療法である。西安には支店五つ開かれている。

   足の治療保健は中国漢方療法の精粋である。百草堂ではその伝統を生かし足反射の治療保健方法を用いる。漢方薬の薬とマッサージによって足の健康を整える。百草堂は業界において、最も規模が大きく設備が揃えているところである。詳しくは87630166へお電話下さい。


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西安農業生態園観光コース  チャーター車 

覇ba橋農業科技園   西安市の東郊外紡渭路南にあり、市内から12キロ離れて、敷地面積100畝。生鮮で大粒の葡萄の栽培を中心に、他にさくらんぼ補とする研究や実験も行い、水密桃、スモモ甘柿、梨、棗などの生鮮果物も育てている。乗車路線:北大街から301路または南門213路バスに乗り、34中学で下車。


紅旗生態農業観賞モデル園 西安市東郊外覇ba橋区高橋村にあり、交通が便利である。現在、葡萄、イチゴ、サクランボ、桃、杏などの果物を栽培し、銀杏、トウネズミモチ、アカシア、りゅう柳、ヒノキ、アカフウなどの珍奇樹木50000本も植えてある。乗車路線:軽工で406路バス、、高橋で下車。


戸県農業生態園 戸県北部渭河のほとりにあり、景色が美しい。現在、農業区、特色養殖区、苗木花園区、湿地牧草区からなっている。近郊散策、休暇すごしの適地である。乗車路線:南門で西安ー周至行きのマイクロバスにのり、戸県南北4号路天馬食品工場で下車、さらに北へ3キロ。


西安現代農業総合開発区 西安市北郊外にあり、優美な自然環境に恵まれている。ここは西部農業を見学、農家生活を体験、現代農業を考察する絶好の窓口である。


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西安サイエンス体験学習観光コース 

楊凌農業科技城 

 1.(昆虫博物館)西北農業科学技術大学敷地内にあり、1987年立てられた。アジアにおいて、展示された昆虫の種類が最も多く、トップグラスの昆虫基地である。

 2.(人工降雨シミュレーションホール)楊凌西農路水保所の中にあり、中国科学院水土保全所の黄土高原土壌侵蝕および旱魃地農業を研究する国家重点プロジェクト実験室である。その規模は世界で二番目、さまざまな状況における人工降雨をシミュレーションできる。

乗車路線:城西バスセンターで楊凌方面のバスまたは、西安駅から西安ー宝鶏の高速列車に乗り、楊凌で下車。チャーター車


工業見学コース 西安ハイテク技術産業開発区をもととする観光コース、現在発展途中の西安の工業を紹介し、その魅力をするコースです。


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お勧めの西安飲食店

 西安は食文化の古い伝統があり、自らの特色をもっている。餃子宴は、唐風料理という倣唐宴、牛羊肉泡と、西安料理の「三絶」と称され、海外のお客様からも高評を得ている。これからの美味食はたいてい古い歴史や伝統を持ち、後他の地域に広がっていったものもある。たとえば牛羊肉泡は周の時代の「羊の羹」に遡ることができ、葫芦頭泡は「薬の王」ト称えられる孫思miao障・ゥかわりをもっているという。あの名高い北京ダックも、実は息天武后の時代に長安城から発祥し次第に広がったものである。 西安食坊(西安大衆レストラン)

 西安の料理は種類が多くて、それを食べ歩くのに数十日もの時間がかかってしまう。コース料理のほかに、さまざまな郷土風味がある。牛羊肉泡(中国風ナンと牛羊肉の煮込み)、la鋤キ汁肉挟餅(中国風パンに煮込んだ豚肉を挟んだサンドイッチ)、葫芦頭(中国風ナンと豚の腸の煮込み)、黄桂椿酒(桂花砧酒)、ほし柿、肉汁入り肉饅頭、面皮(サラダ風麺類)などなど。これらの美味美食を味わえば、西安への親しみやイメージがより強められよう。

  倣唐宴

(陝歌大劇院)文芸路5号

電話:87852664

  三国宴

(皇城賓館)東大街334号

電話:87235311

  餃子宴

(徳発長)鐘鼓楼広場西大街33号 

電話:87214060

  羊肉泡餅

(同盛祥)鐘鼓楼広場西大街3号

電話:87217512

  老孫家            

西安市東大街364号 

電話:87212835

  葫芦頭

(春発生) 南院門25号 

電話:87263424

  小吃宴

(西安飯庄)西安市東大街298号 

電話:87680880

  (五一飯店)

西安市東大街351号 

電話:87681082

  小吃街区

北院門、回民坊、東新街)

 

  ダック

(西安北京ダック)西安市東大街369号

電話:87210089

  樊記肉挟餅

竹笆市45号

電話:87273917

  小六湯包

興善寺西街2号

電話;85360665

  賈三灌湯包

北院門93号

電話:87257507

  永明岐山面

南関正街20号

電話:87807800

  安徳坊清真食坊

長安中路215号

電話:85395927

  文豪雑食府

西安市南二環中段

電話:85222222

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お勧めの西安宿

悠久の歴史と伝統文化を誇り、さらに観光サービスにかかわる施設が整備されつつある西安は、世界に名を知られる国際的観光都市として注目されている。現在、外国人観光客向けのホテルは多く広く分布しており、それぞれのお客様のニーズに応えられる。また、お客様はいつでもご利用できる観光ホットライン86-29-87611350が開通されている。西安及び全国(中国)のご宿泊ホテルお手配


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お勧めの西安娯楽地

  近年、西安市旅行社による特色のある観光コースが数多く企画された。中では、昔風の迎賓入場式、唐楽舞踊、城壁マラソンなどの体験コースは西安観光の人気ものとなっている。そのほか、リラックスできる温泉コースや修学旅行などの企画も国内外の観光客に高評されている。

  西安には唐楽宮、易俗社、陝歌大劇院、銀座クラブ、桃園湖ボーリングクラブなど多種多様な娯楽施設があり、「唐長安楽舞」、「倣唐風音楽舞踊」、「秦俑魂」、「陝西省北部民間楽踊」など代表的な演目が名を知られている。また、長安太鼓楽、秦腔の名曲なども上演されて以来、国内外のお客様に支持・賞賛されている。

    唐歌舞 (唐楽宮  電話:85262066)

    倣唐楽舞 (陝歌大劇院 電話:87853294)

    小雁塔納涼パテイー(女子クラシック演奏 電話:87811081)

    竜宮水上楽園 (解放路39号 電話:87447311)

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お勧めの西安ショッピングセンター

  西安の観光グッズは濃厚な郷土特色がある、秦俑の模造品、古風を真似た青銅品、秦刺繍、玉器、シルク、精緻な磁器、戸県の農民画、唐三彩、磁器の板に描かれた絵画、観光スポット絵入りの時計、麦わらで作成した麦わら絵、関中切り紙など種類が多く、国内外のお客さんの異なる好みとニーズを満たしてくれる。

  西安市には大型ショッピングセンターがたくさんあり、主に解放路、東大街、南大街に集中し、品がそろっている。また他に、碑林博物館あたりの書院門倣古街、南郊朱雀路中段の骨董市場のような文物記念グッズのショップもあり、兵馬俑の複製品や唐三彩、切り紙、そのほかの細工の品々が買える。

  特産  なつめ、くるみ、柔らかい柿、ざくろ、黒米、西鳳酒、牛や羊の干し肉、乾県焼きパン、西郷牛肉、甘泉干し豆腐、陝西栗など。

  民間工芸品  古風を真似た青銅器、秦兵馬俑の模造品、碑林拓本、秦刺繍、シルク、精緻な磁器、戸県農民画、唐三彩、麦わら作成した麦わら絵画、関中切り紙、鳳翔土人形、藤あみ、秦劇の隈取人形、皮影人形芝居など。

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西安交通情報 

  西安は空路、鉄道、道路などが日ごとに整備され、よりいっそう便利になった。咸陽国際空路の改築や西北航空会社の、大型旅客機の海外購入によって、西安の空路輸送力は大幅にたかめられた。さらに、観光専用列車やエアコンつき特急列車が開通され、市内における交通状況も改善されるにつれ、国内外の観光客が、より便利で快適な旅を楽しむことができるようになった。西安への道(列車、飛行機)

  航空(飛行機)

  西北航空会社航空券センター電話:

029-88702229

 

  長安航空会社航空券センター電話:

029-84250784

 

  咸陽空港インフォメーション電話:

029-88708450

 

  鉄道(列車)

     西安駅問い合わせ電話:

029-82131300

 

  道路(長距離バス)

     陝西省西安バスターミナル電話:

029-87427420  

西安駅西広場

     西安市東バスセンター電話:

029-82525048

長楽中路17号 

     西安市バスセンター電話:

029-84261906

農慶路19号 

     西安南関バスセンター電話:

029-88412440

朱雀門外

     西安城門バスセンター電話:

029-84627137

棗園東路92号

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お勧めの西安観光コース

西安発1日間観光コース

A(東コース)兵馬俑博物館、華清池、麗山、半坡遺跡博物館

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B(西コース)法門寺、乾陵、茂陵

C(市内)明城壁、碑林、大雁塔および北広場、歴史博物館、大清真寺

D華山

西安発2日間観光コース

A東コース+西コース

B東コース+市内

C東コース+華山

D市内+華山

E市内+山西運城塩湖

西安発3日間観光コース

A東コース+西コース+市内

B東コース+華山+市内

C東コース+西コース+華山

D市内+華山

E東コース+市内+山西運城塩湖

F市内+陝南瀛湖+風河漂流

G東コース+市内+網河漂流

西安発4日間観光コース

A市内+四川九寨溝、黄龍

B東コース+西コース+市内+華山

C東コース+市内+華山+山西運城塩湖

D市内+湖南張家界

E市内+湖北武当山

西安発5日間観光コース

A東コース+市内+四川九寨、黄龍

B市内+寧夏沙湖

C東コース+市内+湖南張家界

D東コース+市内+皇帝陵+延安+壺口

 目次

格安西安旅行西安の人気観光コース(モデルコース)

西安発着一日日帰り観光コース、西安郊外に一泊泊まる観光コース

10日西安発三国誌ゆかりの遺跡を巡るコース

中国移動室「辺塞の詩」に学ぶ(漢詩コース)

もっと豊富多彩な格安西安旅行観光コース

西安にご滞在中、日本語西安観光ガイド/通訳をご利用いただく場合

 西安の観光ガイドの中から優秀な観光ガイド、日本語が堪能で、観光ガイド資格を持っておる西安観光ガイド/通訳が西安をご案内致します。

お問い合わせ…

  • ガイドの案内時間は原則として、08:30−18:30

  • 観光地において、ガイドの入場料は必要ありません。

  • ガイドの食事代(20元/回、仕事中のみ)はお客様負担となります、夕食を御一緒にされる場合はガイドの分もお支払い下さい。

  • 夕食までは延長料金は必要ございませんが、夕食後も案内を希望される方は御相談下さい。

  • 鉄道、バス、タクシーを利用される場合はガイドの交通費もお支払い願います。

  • 一泊以上の宿泊が必要な観光地を訪問される場合はガイドの食費宿泊費が必要になります。

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