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唐代長安城大明宮含元殿遺跡観光ガイド

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唐長安城大明宮含元殿遺跡保存事業


●唐代長安城大明宮

●大明宮含元殿

●プロジェクトの背景

●事業の目的

●事業の組織管理
●第一回の考古学的調査

●第二回の考古発掘調査

復元の考査

事業の設計原則

事業の推進

含元殿遺跡の基壇の保存

●含元殿付近の窯跡

●結び

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●唐代長安城大明宮

唐代(618-907年)の長安城は隋代初年に当たる西暦582年に創建され、唐朝建国の後も首都として踏襲されました。都市の規模は大きく、高い城壁と華麗な宮殿区に官庁街、そして整然と区画された通りがありました。唐の長安城は東西9721メートル、南北8652メートルで、面積は約90平方キロ。100万の人々でひしめきあう国際的大都会として隆盛を極め、後世と外国におおきな影響を与えました。西暦904年、唐は洛陽に遷都し、長安は首都の地位を失い、衰退していきました。
長安城の中央北部に、皇帝の居住区である宮城と、官衙、役所が並ぶ皇城がありました。建国当初、皇帝は宮城内に住んでいましたが、654年に太宗李世民は父である李淵のために、長安城の北東部に大明宮の造営を始めました。その後、663年に高宗李治が大規模な造営を行い、そして太極宮から大明宮に朝政を遷しました。その時から大明宮は唐朝の政治的中心となりました。
大明宮は含元殿、宣政殿、紫宸殿という3つの正殿によりなる政務区と、その後ろの太液池を中心とする居住区との二つの部分により構成され、長安城の三つの大型宮殿の中で最大規模のものであり、唐の政治的中心でした。

↑唐長安城遺跡平面図

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●大明宮含元殿

含元殿は大明宮の一番目の正殿であり、662年に含元殿の造営が始められ、翌年に落成し、その後、223年にわたって使用されました。大明宮の主殿である含元殿は、国家的儀式や大典が行われた場所であり、元日、冬至の式典、外国使節団の謁見(えっけん)及び改元、即位、受賞、大赦(たいしゃ)、閲兵(えっぺい)等の諸儀式、大典(たいてん)はここで挙行(きょこう)されました。
含元殿の建物は、788年正月の大地震の後も、地震、大風、大雨などの自然災害に度々見舞われ、その度ごとに修復を重ねました。唐大末期に長安城は幾度かの戦火に見舞われましたが、886年頃に兵火によってついに失われました。

↑含元殿遺跡平面図

含元殿模型

●プロジェクトの背景

含元殿の損害の後、1100年あまりの人為と自然の両方の要素による破壊(はかい)によって、基壇部分は基本的に元の様子を残していますが、遺跡の破壊は非常に深刻です。ここ数十年来、中国政府は遺跡周辺の土地の回収、保護壁の建設、専門の管理者の配備など、多くの保護措置を取ってきましたが、自然的破壊の除去(じょきょ)はなされておらず、遺跡はいまだ有効な保護を受けていませい。
1993年に、ユネスコは中国及び日本政府とともに、専門家を組織して大明宮遺跡の調査を行い、また三者の協議により、三者の協力によってユネスコ世界文化遺産保存日本信託基金を利用し、工程技術方式を採用して唐代大明宮含元殿遺跡保存修復事業を実施することを決めました。1995年7月、ユネスコと中国政府は北京で「大明宮含元殿遺跡の共同保存行動計画」を調印しました。

●事業の目的

大明宮遺跡は西安市の北東部にあたります。大明宮遺跡内の含元殿遺跡には、東西約200メートル、南北約100メートル、高さ約15メートルの巨大な基壇が残っています。創建からすでに1300年以上を経ていますが、かつては規模、構造ともに壮大で華麗なものであったと想像できます。大明宮含元殿遺跡に対して工事技術上の保存措置を講じなければ、この遺跡は除々に消滅していくと思われます。そのために、これ以上現存する遺跡が破壊されることのないように守ることが急務となっています。
今回の事業は、大明宮の中心的建築の一つである含元殿遺跡を未来への遺産として永久に残すことと、歴史教育と古代文化に直接接触する場とすることを主要な目的としています。この二つの目的を達成するために、含元殿遺跡の基壇の保存と修復を行い、整備を行った後に、人々の参観のために開放sることが必要です。
   また、隋から唐の時代にかけて、小野妹子の遣隋使としての派遣(はけん)を皮切りに、日本は度々遣隋使、遣唐使の派遣を行いました。この間、遣唐使や多くの遣唐留学生は、中国の先進文化を学んで帰国しましたが、唐に残る留学生もおり、玄宗皇帝につかえた阿倍の仲麻呂のように、当時の長安で活躍した人物も知られています。特に753年正月に玄宗皇帝が含元殿で挙行した朝賀の儀式において、遣唐大使藤原清河、副使大伴古麻呂が、新羅の使節と席次を争(あらそう)った事件は、日中外交史の上で有名な話です。よって、日中両国が共に協力してこの保存事業を行うことは、両国の友好の促進に貢献(こうけん)することにもなります。

↑修復された含元殿遺跡

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●事業の組織管理

1994年に、本事業の基本方針は、ユネスコ、中国、日本の三者からなる大明宮含元殿遺跡中日共同事業協力委員会において決定されました。これに基づき、日中の専門家が委員会に集まり、事業全般に対して協議を行っていきます。具体的な事業工程の管理は、中国の文化財保存関連部門が行っています。

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●第一回の考古学的調査

中国科学院考古研究所は、1959年冬から1960年夏にかけて、初めて唐長案大明宮含元殿遺跡の発掘調査を行い、発掘時、殿内の床面の磚は失われていましたが、正殿はまだ大部分の壁の基部及び柱穴遺跡が残り、その基本的形式と構造を認識できました。

↑もとの含元殿遺跡

第一回考古現場

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●第二回の考古発掘調査

含元殿基壇の修復保存事業を実施するために、1995年から1996年に中国社会科学院考古研究所は含元殿遺跡に対する考古調査、測量及び発掘を行いました。今回の発掘では、大面積のグリッドによる発掘方法を採用し、発掘面積は27000平方メートルで、発掘によって含元殿の柱の配置、基壇の構造、龍尾道の位置、建殿時の煉瓦の窯跡、宮殿前広場、含元殿と朝堂の相対位置などの問題に関する新たな発見があり、両翼の回廊曲がり角に角楼を発見し、含元殿の東と西から含耀、昭慶の二つの門に通じる閣道を確認し、保存工事方案の設計と実施のために大量の根拠と信頼できる資料を提供しました。
龍尾道の発見は、含元殿をモデルにした日本の平城宮の大極殿が両側から登る形式であった謎を解いたことになります

含元殿遺跡鳥瞰図  

第二回考古発掘現場

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●復元の考査

含元殿は龍首原の南の高台にあり、地勢が高くて広大で、広々とした視野をもっています。高低差が大きいので、上部の建築は3層からなる大基壇の上に増築され、建築群が左右(さゆう)対称に配置され、中心の正殿(含元殿)を包み込むような構成となっています。
発掘調査の結果と含元殿の関連文献の研究により、含元殿の建築群は含元(正殿)、飛廊、通乾門、角楼、翔鸞閣、棲鳳閣、大基壇及び龍尾道を含んでいたということを確認しました。大基壇の下部は山を削っていくられ、上部は板築(土を層状に叩き締めていくる)により築かれたもので、15mの高さに及ぶ壮大なものでした。表面に煉瓦や蛟(みずち)首を巡らせていました。
正殿は、礎石跡から、桁(けた)行11間、梁(やな)行4間のところに裳(もすそ)階が付き、全体では桁行13間(67.03m)、梁行6間(28.22m)と復元できます。裳階には木製階段を設け、両階の古製を採用しているようで、その内部構成も殷代、周代以来の伝統を守っていたと考えられます。主殿の東西両側、それぞれ30メートルのところに棲鳳閣と翔鸞閣が建てられ、殿堂と閣の間に曲尺状の長廊下が繋がり、角に建築物が建てられ、台地の下の大殿南東及び南西に東、西朝堂が建てられ、朝政時に官吏は殿前の龍尾道を通って殿へ上がらなければなりませんでした。
東に突き出た形の翔鸞閣と西に突き出た棲鳳閣は対称に配置されていました。大きな楼閣の外側に小さな楼閣二つ繋がっており、このような形状は唐代の墳墓の壁画によく見られます。

↑唐代煉瓦の上にある模様

↑復元用含元殿建築図

●事業の設計原則

本事業は、大明宮含元殿遺跡を主体とするマスタープランの作成と、含元殿遺跡の基壇の保存修復及び周辺整備を中心に進められます。また、歴史的遺産の保存修復を国際協力事業として行うことは、中国とユネスコとの連絡の推進と同時に、日中両国の民間の友好関係にも大きな力となることでしょう。
含元殿の基壇保存修復事業は、現状の遺跡に依拠(いきょ)し、これまでの発掘結果と文献(ぶんけん)資料をもとにして、可能な条件と確かな根拠の前提の下に、当時の含元殿の規模と形式を再現していきます。工事の際に、できる限り唐代の建築技法と、唐代と同じ建築材料を採用し、もとの遺跡を傷つけないように確保します。後世の遺跡研究に役立つよう、保存工事は再処理性が求められます。

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↑お客様(観光客さま)に礎石を見せる用施設

↑唐代の付き固めた土

↑唐代の柱石を埋め直し

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事業の推進

大明宮含元殿遺跡保存修復事業は二期に分けて行われました。第一期プロジェクトは1995年に開始し、1998年に完了しました。その主な内容は考古学的調査と発掘、修復保存工事方案の設計、修復保存工事の施工設計及び初歩(しょほ)的な事業の施行(しこう)です。第一期の保存工事が竣工(しゅんこう)した後、中国、日本、ユネスコは調査研究、協議検討を経て、含元殿遺跡保存事業の完成の目標を全面的に実現するため、第一期の事業を引きを継ぎ(つぎ)、第二期の保存事業の実施を決めました。第二期プロジェクトは1999年10月に始まり、2003年3月に完了、その主な内容は土木建築工事です。

↑人力で土を叩き、龍尾道と栖鳳閣を建て直し

 

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含元殿遺跡の基壇の保存

含元殿の基壇保存修復事業は、現状に残る遺跡をそのまま土中(どちゅう)に残る形で行います。遺跡の表面に土を被せて保護層とし、これまでの発掘結果と文献資料などをもとに、精密な学術的検討を行った後、基壇の形態を復元します。工事の際に、できる限り唐代の建築技法を用いて、唐代と同じ建築材料を採用していきます。
   保存工事実施後の含元殿遺跡は、徹底的に雨雪、風害、凍結(凍結)、融解(ゆうかい)、野生植物などの自然と人的(じんてき)要素の遺跡への侵害を根絶(コンゼツ)し、有効的保存の実現します。
含元殿遺跡保存工事の完成は、千年間野ざらしになっていた遺跡を有効に保存し、含元殿遺跡を子孫への遺産として永久に保存し、人々が歴史教育と古代文化に直接に接触する重用な場となり、各国の観光客の憧憬(どうけい)する重要な観光地となるということです。

↓修復された第二層基壇

↓修復中の含元殿遺跡

↓含元殿遺跡から出土された煉瓦

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●含元殿付近の窯跡

含元殿の北と東の両方で多くの唐代の窯跡が発見され、考古学的研究により、当時、煉瓦を焼くために建設されたものだと考えられています。考古学的に発掘された北側の四つの窯跡は、形の保存状態がよく、参観の可能性があります。このため、今度の工事では四つの窯跡のために保護ドームを設計し、本体に対して一定の補強(ほきょう)を行い、現在すでに対外的に開放しています。

↓含元殿付近の唐代窯跡の内部

↓窯跡の外部

 

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●結び

世界各地に現存する文化遺産は人類共通の貴重な財産であり、ユネスコの主宰(しゅさい)の下で、世界文化遺産保存日本信託基金の提供した資金を利用し、国際協力の形式で大明宮含元殿遺跡を救助して保存することは、国際社会の人類文化遺産の保存に対する決心と信頼を反映しています。多くの大衆の文化財保護の意識の強化と。中国の文化財保護事業の発展の促進に対して、重要な意義があります。今回の大明宮含元殿遺跡の保存修復事業は、日中両国の専門家が協力して取り組んできました。このことは、両国間の文化的交流に重要な意義を持つこと
に限らず、今後のアジア地域の文化遺産保存のあり方をともに探るための大切なステップともなることでしょう。