西安金橋旅行社

西安一日間終日観光:西安日本語観光ガイドつき、観光専用車(セダン、ワゴン車)をチャーター、西安市内+西安郊外、一日間日帰り充実観光

西安観光写真集、西安見所の写真集、セイアン観光スポット/観光地の記念写真集

西安人気観光コースと所要観光時間西安一日間終日観光:西安日本語観光ガイド付き、観光専用車(セダン、ワゴン車)をチャーター、西安市内+西安郊外、一日間日帰り充実観光

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西安一日間終日観光:西安日本語観光ガイドつき、観光専用車(セダン、ワゴン車)をチャーター、西安市内+西安郊外、一日間日帰り充実観光


西安観光用貸切車写真


西安一日間終日観光:西安日本語観光ガイド付き、観光専用車(セダン、ワゴン車)をチャーター、西安市内+西安郊外、一日間日帰り充実観光

セダン

ワゴン車

10人乗り マイクロ

22人乗りバス

40人乗りバス

車隊

車内


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西安見所の写真集、セイアン観光スポット/観光地の記念写真集


西安エアポート(西安空港、西安飛行場)、西安駅の写真集


広大な黄土台地、黄河の源流。

西安咸陽国際空港、西安は行き先を指して、咸陽はエアポートの場所。

西安咸陽国際空港のエプロン(apron)

洛陽へ向く西安の二階建ての軟坐(一等)車。


西安市内見所、観光スポット(観光地)の写真集


鐘楼は西安市内の中心にあります。ここを起点として東西南北に四つの大通りが伸び、それぞれ四つの城門に通じています。この四つの大通りが市内の交通網の基軸と なっています。 鐘楼は正方形の木造建築で、高さ36m、敷地1377平方m、高さ8mの煉瓦造りの土台の上に立っています。  昔、時を告げるため、明の洪武十七年(1384年)に造られました。もとは広済街にありましたが1582年に今の所に移りました。塔の上にかつて、大きな鐘が吊るされていました。鐘は毎朝70回撞かれ、鐘を撞き終わって から東西南北にある四つの城門がそれぞれ開けられたと言われます。 今、鐘楼の鐘の音は録音されており、毎朝市民に時刻を告げています。鐘楼は外から見れば華麗な三階建てですが、実は軒が三層、建築は二層です。楼の四方にアーチ型の通路があり、楼の中に階段もあります。天井には綺麗な花 の模様が描かれています。四方の門の人物像にはそれぞれ面白い来歴があります。この壮観な建物の造営のには釘が一本も使われていません。鐘楼は清代の乾隆五年(1740年)に修理されました。また、1953年7月から1954年6月にかけて全面的な大修理が行われ、ペンキも塗り直され、 現在の姿は全く昔日と同じです。楼上からは市内の街並を一望できます。 西安市の中心にあり、夜の鐘楼。 夜のベルタワー 鼓楼「巨大な太鼓を安置」昔はそれを打ち鳴らして時を知らせた。 鼓楼の上に備えてある太鼓 夜の鐘鼓楼広場、特別の日は噴水ショーが開催されています。 夜の鐘鼓楼広場、その近くに西安の餃子の老舗--「徳発長」があり。
西安城壁の南門の内側、南門に上がる口、城壁は紀元1374年から1378年にかけて築かれた西安城壁は長方形を成し、周囲11.9Km、高さ12m、上部の幅は 12〜14m位、中身は土、表面はレンガで覆われて、現存する中国の城壁の内、最も完璧なものである。東西南北にそれぞれ城楼があるが、東西だけが、二重 城楼になっている。 夜の南門 西安の夜景 西安の夜景、西安の交通ラッシュアワー 夜の芙蓉園 香港名物だった二階立てのバスも西安市では珍しくなくなりました、ただどこも信号が少ないので、交差点では自転車も道を譲らない。 南門の外側、昔 外国の使節を迎える所、古代の吊橋がまだ残っています。今 西安の入城式を行っているところ。
西安の入城式 入城式が終わった南門 冬の西安城壁(南門) 南門の外堀と吊橋---城壁は想像以上に厚く、まるで堤防のようだ。跳ね橋を渡ると城門の入り口は狭く、馬車がすれ違うこともできない。更に内側には四方を壁で囲まれた関所があり、二重の門を抜けて城内に入るのは容易い事ではない。 シルクロード出発点記念像、長さ14メートル、中国国内で一番長い石像、 シルクロードに沿って、西へ旅たつ人達の記念像 西門の外側、シルクロードの起点として西門がとても有名である。昔、中国の絹はここから運び出し、西域の品々もここの門を通って中国全土に伝わっ た。今、西門の周辺には西域から移住してきた異民族の末裔が多く住んでいる
西門の内側---この上にレンガを積んだもので、土手の上は幅12mくらいの遊歩道になっている。西の城門は新しい門が横に出来ていた。古い門は二重になっていて、その間に敵を誘き入れ袋のねずみ状態にして矢を射掛けたとのこと。西の門はシルクの取引所のあった所。元の門の上は見かけ3階に見えるが実際は2階建て。 城郭に登ると、窓の外にかつてのシルクロードがあった。ロードの突き当りはイタリアの「ローマ」。 西門の上にある箭楼の屋根 西安城壁マラソンの出発点 城壁マラソン----古都長安(今は西安)に残る城壁の上を走ることです、街を囲む城壁の上だけでハーフマラソンのコース(5キロ)が用意されていて、日本からも多くの方が参加しています、、城壁の上は幅が15m,高さ12m、それが街の真ん中に約3.5キロ四方にわたってドンと構えていて、一回りは11.2キロ、歩いたら3時間掛かります、自転車に乗ったら、1時間半、カートに乗ると、1時間。ハーフマラソンのコースが城壁の上だけで取れるというだけでもビックリさせますが、この城壁は明の時代のもの,唐の長安のころはこの7倍の大きさだったそうです。古都の風景を楽しみながら走ろうとスタートして,レンガを敷き詰めてある城壁の上は微妙に段差があり,足にこたえて青息吐息でなんとかゴール。タイムは1時間48分と散々できるが,西安の城壁のスケールを膚で感じることができます。                「北門」 古代 農家の人たちは城内に入る門であるそう。 西安城壁は隋・唐時代の基盤に明代以降改修を加えて、明代の規模のまま今に残る城壁ですが、この部分だけは唐代のものです。
西安城壁の外堀、水が入っています 城壁の外側 城壁の内側 城壁の上にある矢倉  外堀と城壁-—-城壁は外堀を掘ったその土を固めてできたもの、西安市内全体を城壁と外堀が囲っていたが、今ではその姿をはっきり留めるのは、西安と荊州ぐらいだ。城内への入り口は、昔は4つの門だったが、今は18の門。 外堀と城壁の間は遊歩道のようになっていますが、実際はそれは城壁公園です、その近くに住んでいる西安の年寄りたちが良く遊んでいる所です、いつも朝 あそこで社交ダンス、太極拳、駒回しなどをやっている人を良く見えます、すごく賑やかなところです、また、鳥が入っている鳥篭を持っている年寄りにも会えます 西安の城壁公園
西安市内 西安市内のブランド品店 アジア二番目の博物館--「陝西省歴史博物館」、ここに収めるコレクションの数が11万3千点にのぼりました、 中国の書道博物館--「碑林博物館」 碑林博物館にある池、昔 大学生達が筆を洗うところだそう、鳥居型な建物は中国で牌楼といいます、孔子廟のシンボルである。 郊外に散在していた石碑を一箇所に集めた碑林博物館、書が好きな人にいい所である。 拓本作成中
小雁塔は、則天武后が夫高宗のために690年に改修した薦福寺の境内にあります。唐の名僧義浄がインドから持って帰った400の経典を納めるための塔として、707年ごろ建てられました。大雁塔と同じくインドの建築様式を模しています。大雁塔が直線的なのに対し、小雁塔は曲線が特徴的です。所在地 : 陜西省西安市友誼西路76号 開館時間 : 8:00〜17:00(冬季8:30〜17:00)休館日 : なし 料金 : 10元(塔は10元) 日本延暦寺の元--「薦福寺」 玄奘三蔵法師は仏教の翻訳に没頭した大慈恩寺。 西安のシンボルタワー大雁塔は紀元648年、唐の三代目の高宗李治が亡母文徳皇后を追慕して皇 太子時代に建てた寺で慈恩寺といいます。境内にそびえる大雁塔は紀元652年にインドから帰った玄奘三蔵法師の願いによって建立されました。現在は七層の塔で高さは64メートルあり、一気に駆け上って西安の街を眼下におさめました。なお、玄奘三蔵がこの寺で大般若経600巻を訳したことは有名でこの経典のエッセンスが「般若心経」になったという。 やや左に傾いた大雁塔 大雁塔の内部は急な階段が螺旋状に続く。 大雁塔の塔上(7階)から眼下におさめた西安の街
大雁塔の上層から見ると、四方に向かって、真っ直ぐの道がどこまで続いていた。 夜の大雁塔 夜の大雁塔 大雁塔の近くにある広場 夜になると西安大雁塔の北側の広場で噴水ショー(30分間)が開催されています。音楽に合わせてリズムカルに、地面にある様々な色のライトが点滅し、噴水の高さや水の噴きあがり方も変わります。光と水がまるでダンスをしているような感じです。 大雁塔の近くにある噴水ショー 噴水ショー
噴水広場の傍にはがある店。 西安の夜景、夜の西安城壁 西安の夜景、美しい西安の夜。 夜の西安市 大雁塔と玄奘三蔵法師。 宝慶寺塔、その近くに西安の古文化街--書院門があり
西安の書院門では筆、硯、書道具などの文物の他に… 改造された今の書院門 西安の古玩市場---八仙庵 西安の中心部のやや西寄りにある大清真寺,唐代に創建された由緒あるモスク(イスラム寺院)である。あたりは回族街になっている。中東のようなデザインではなく、屋上の月の紋章を除けば仏教寺院と何ら変わりはない。シルクロードで、西と東の文明が衝突し、融合していることがよく分かる。 モスクに入ると、信者が三々五々集まってきた。教義どおり、寺院のシャワー室で入浴してから拝殿に来る者もいれば、そのままズカズカと入ってくる者もいる。入浴した信者のタオルがあちらこちらに掛けてある。子供連れの信者もいる、中国では未成年者をモスクに連れてくることは制限されているが、モスクに参拝できるのは、自分の意志で参拝していると見なせる成人のみだ。こうした宗教政策は、宗教を否定する唯物論と、イスラム教を信仰する少数民族の懐柔策という相反する思想の妥協のうえに成立したものである。しかし、この宗教政策も、参拝者の多くが漢族との同化の進んだ回族が中心である西安においては、骨抜きになっているようだ。全くの異民族であるウイグル族地域では見られない光景である。 礼拝の主催者(イマーム)の説教が始まると、異教徒は拝殿のなかには入れてもらえない。マイクごしに説教が聞こえてくる。拝殿の外には、拝殿に入りきれなかった信者が絨毯を敷いて座って聞いている。拝殿の外壁には時計の模型が掛けてあり、それぞれ違う時間を指している。礼拝時間の案内のようだ。 説教が終わると、礼拝が始まった。マイクの掛け声(おそらくコーラン)に合わせて、みんな一斉に立ったり座ったりしてお祈りをしている。みんな真剣そのもので、神々しさが感じられる。 大清真時にある清代の建物 「青龍寺」----若き空海「弘法大師」修業の地。
「青龍寺」にある空海の画像。 青竜寺の空海記念碑--青竜寺も長安城内にありました、唐代に、日本からの留学僧の空海・円仁・円行・円珍・恵運・宗睿が学んだことで知られる。都城の東のはずれの新昌坊にあった。かつての姿を再現しようと、いま境内には新しい堂塔がどんどんふえています 大興善寺、弘法大師空海の師 恵果大師はここに住したことがあるそう 西安城壁 西安高新区 西安の高新開発区、新しい西安市。 西安のテレビタワー、このあたりは40箇所の大学が集まっている。
西安の一番高いビル、44層 西安の国立図書館。 西安の人民政府 西安名物料理、餃子の老舗 西安の夜店、屋外でヤキトリやシシカバブを焼く。 西安の美味しい料理---「瓢箪頭」、豚の大腸が多く入ってる。 もち米のしん粉を蒸して作った甘い食べ物。
始皇帝の阿房宮 曲江春暁、楊貴妃と玄宗皇帝は月餅を食べながら、月見をするところであるそう。 興慶公園は唐代の日本からの遣唐使などの外国の使節を謁見した興慶宮のあと。玄宗皇帝が政務をとり、楊貴妃が牡丹の庭を愛した。李白が、楊貴妃と牡丹の美を「一枝濃艶露凝香」とうたった。池がある。これが竜池だろうか。公園の面積は往時の3分の1。 「興慶宮公園」---興慶宮は今の城外、東南郊外にあり、唐代の興慶宮の一部です。昔の興慶宮は玄宗皇帝の兄弟五人の王子たちの御殿として造られたのだそうですk。その後、皇帝は貴族たちがよくここで歓楽を尽くしました。特に玄宗皇帝が728年に興慶宮で正式の政務を執りはじめてから、ここは大明宮に代わる唐代の政治の中心地でした。また、玄宗皇帝は楊貴妃と共に、長い間ここで酒と歌舞に明け暮れ、生活を欲しいままにしていたそうです。745年〜756年までのことでした。 沈香亭とは、楊貴妃が牡丹を観賞するために建てられたものです。唐代、沈香亭の回りには牡丹が沢山植えられ、毎年春になると綺麗な牡丹が鮮やかに競い合って咲いていたそうです。史書によると、牡丹の花は百種類以上あって、一日に何回も色が変わったといいます。その季節になると、玄宗皇帝と楊貴妃は沈香亭で酒を飲み、歌を歌い、花盛りの牡丹を観賞しました。輿に乗って、李白を呼び、詩を作らせたこともありました。 今日、よく詠われている「清平調」という詩はその時に作られた物です。「名花傾国両つながら相喜ぶ、常に君王の笑いを帯びて見るを得たり、春風無限の恨みを解釈し、沈香亭の北欄干に倚る。」 名花である牡丹と傾国の美女楊貴妃は共に玄宗皇帝の喜ぶもの、皇帝はいつも笑いを含んで見ていました。李白はこの詩で牡丹と楊貴妃を交互に書き、花即ち人、人即ち花、牡丹の美しさと楊貴妃の艶やかさを重ねて詠んでいました。 阿倍仲麻呂記念碑は興慶公園にあり、唐の朝廷で功なり名とげた仲麻呂は、鑑真とともに日本をめざした。しかし、暴風雨にはばまれて、はたせなかった。死んだと思って李白がつくったのが、「日本晁衡辞帝都」の詩だ。けっきょく仲麻呂は帰国をはたせず、鑑真が日本にわたった。西安と日本の奈良市の友好都市関係締結五周年を記念して、1979年7月1日に立てられたもの。大理石作りの美しい記念碑の高さは6.1m、碑の正面には金文字で「阿倍仲麻呂記念碑」と刻まれ、側面には阿倍仲麻呂が故郷の奈良を偲んで詠んだ望郷詩と当の詩人李白が仲麻呂を哭す詩がそれぞれ掘られています。 阿倍仲麻呂は698年、奈良に生まれ、717年、19才の時、留学生として遣唐使に従って長安に来ました。彼は国子監(大学に相当)で一所懸命勉強し、当時最難関とされていた進士の試験に合格し、唐王朝の官吏となり、752年に今の国立図書館館長に当る職にも就きました。こうして、彼は長安で35年間生活しましたが、祖国日本および親類を偲ばないことはなくて、小倉百人一首で有名な短歌を作りました。みなさんもご存知のとおり・・「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」なのです。 「沈香亭」とは、楊貴妃が牡丹を観賞するために建てられたものです、「興慶宮公園」にあり、建物の材料には沈香木が多く用いられていたため、沈香亭と名付けられました。 興慶宮公園の一部分
西安の蓮湖公園            

西安東郊外見所、観光スポット(観光地)写真集
秦の始皇帝の像---秦の一世の皇帝。荘襄公の子、一説に実父は呂不偉。第31代秦王。列国を滅ぼして、前221年中国史上最初の統一国家を築き、自ら始皇帝と称した、法治主義を取り諸政を一新、郡県制度を実行、匈奴を討って黄河以北に遂い、万里の長城を増築し焚書坑儒を行い、阿房宮や麗山の陵を築造、(在位前247〜前221・前221〜前210)(前259〜前210)  秦の始皇帝陵です、このスケールは世界第三、一見普通の小高い山に見えるが、実際は盛り土の墓である。始皇帝は紀元前259年にうまれ、名は贏政、13歳で即位して、22歳で政務をとった、30歳で当時の敵国を次次に滅ぼして、初めて全国を統一した。紀元前210年、巡視中に50歳で病死して、この間さ陵に葬られました、陵墓の工事は70万人の囚人を使い、36年間を費やしてようやく完成した。盗掘に備え、地下の水脈を掘りぬいて、その下に墓室を作り、地面に銅版を敷き詰め、その上に棺が安置されている。墓室に収められている数多くの宝物を守るために自動発射のできる弓矢がかけられている。更に自然再現のために、墓室の天井には宝石の星を嵌め、床に海と川をまねして、水銀を流しているそうである。住所:西安市臨潼県、電話:029-3912542、開放時間:8:00-17:00、入場料:25元 北側から秦の始皇帝陵をあおぐ、頂は長方形、上まで石段があり、その両側は石榴の果樹園、兵馬俑博物館がかすんで見えます。 始皇帝陵から東へ1.5Kmの地点に、世界八番目の不思議とも呼ばれる兵馬俑坑がある。1974年3月に旱魃に窮した地元農民が井戸を掘り始めた。2, 3m掘ると変わった陶器の破片が見つかった。考古学者の鑑定によって始皇帝の地下近衛軍団が配置されていることが初めてわかった。この偶然の発見によっ て、地下に2000年も眠っていた、世を驚愕させる兵馬俑がようやく日の目を見た。坑は発掘順序に基づいて一合坑、二号坑、三号坑と名づけられた。 これは一号坑の写真、最大の一号坑は長さ230m、幅62m、深さ5m、総面積14260㎡、兵馬俑の数が約6000体、二号坑は6000㎡、俑の数は1000体余り、三号 坑は500㎡、俑の数は58体に過ぎず、規模が一番小さいが、地下軍団の司令部に当たる。 20世紀最大の考古学上の大発見、秦始皇帝兵馬俑。日本の弥生時代に作られたもの。 8000体に及ぶ沈黙の大軍団、それぞれ個性表情が異なる。
井戸を掘って陶俑陶馬を見つけた一号坑、一号坑は今なお発掘を続けているが、中は土掘によって区切られ、 上に丸木を掛け、その上にゴザを敷き、表は2mの土によって覆われている。前衛部隊と四周にたっている警備隊に守られ、主力軍は38列に分けられて、東に 向かって整然と列を組んでいる。兵隊俑の平均身長は1.8m、胴体は空洞、下半身は詰まっていて、顔の表情はそれぞれ異なり、身分によって服装もまちまち であり、いずれも手に武器を握っている。一部の俑にはまだ色彩が残っている。馬の高さは1.5mで西域の大宛の馬に似て、足が速いと言われている。 兵馬 俑はこの近くの粘土を材料にして、彫刻などの手法を施し、最後に窯に入れて焼いていた。殉死制度のあった時代に人間に代わって陶製の人形を殉死品とするこ とから、人類文明の進歩を伺うことができる。 陶俑中の将軍俑と中級軍吏俑 二号館にある立射俑、今の姿は弓を持って、何かを待っている感じです、つまり、前の方にいる人が鏃を射てから、自分は前方へ一歩踏み出して、発射を続けるのを待っている姿です 玄宗皇帝との避暑地清華池温泉、楊貴妃の湯浴み姿。 楊貴妃と玄宗皇帝のラブストーリで名高い華清宮    
中国秦嶺山脈の東側に聳える名山、陝西省華陰県にあり、花崗岩よりなりる。五岳中の西岳。「華山天下の険」といわれ、雄大さと険しさで古くから広く知られている、最高峰は2100メートル、山の至る所に断崖絶壁があり、山道が険しい、多くの人は華山に登ることを探検と呼び、途中で恐れを成して引き返す者も多い。華山は古来より一本の道しかない、華山は険しさが特色で、「険」と云う文字があちこちにあります。 華山 華山 華山 険しい華山 華山 朝日影
華山 華山 華山 華山の頂 華山 華山
華山 華山 華山 華山 華山 華山 華山
華山 金鎖関 険しい華山 険しい華山 険しい華山 険しい華山 険しい華山
西安にある古代の橋脚1 西安にある古代の橋脚2 西安にある古代の橋脚3        

西安北郊外見所、観光スポット(観光地)の写真集
空港近くの玉蜀黍畑の中に見えるスリーマイル風の煙突は、西安の渭水火発所である。 畑の中に大小さまざまの古墳群が点在していて、これは前漢時代の四番目の皇帝--景帝の墓、隣は奥さんのお墓、もう発掘されました、今 お墓の周りには10万点ぐらいの埴輪が埋葬されていることも証明されました 党家村は明清時代からの四合院の村ですね。 村の民家で宿泊や食事もできます。どの家も「(火亢)カン」(韓国のオンドルみたいもの)という下から火(煙)を通して暖める寝台があり、そこで食事もしたりします。韓城へ行かれるなら、司馬遷墓へも行かれます。高台にある司馬遷墓から見る黄河の景色は素晴らしい。春になると、麦の緑色、菜の花の黄色、そして黄河とのコントラストが素晴らしく、感激させます。党家村は、明・清時代の民家が残っています、観光地として開放され、ここの観光システムは、ガイドに村を案内してもらうというもの。門票はガイド料込みで15元/1人(ガイドは中国語)。中国人が結構来ています、中国人の観光客に混じって観光できます。昔の民家はやはり風格があり、窓の格子・屋根の梁の細工など、とても細かくてきれいです。行き方:韓城市内のバスターミナルから下峪口行きバスに乗り、党家村へ行く別れ道で下車。(車掌に「党家村に行きたい」というと、教えてくれます。)そこからは畑の中の道を25分ほど歩くしかありません。中国人の観光客は皆車で来ていて、歩いて来たのは少ない。ですので、チャーターたーを利用してくるのが一番いい。 黄河壷口滝は、黄河上流域で続いた大雨の影響でここ数年来の壮大な流れとなている。 「黄帝陵」--中国古代伝説上の帝王、三皇五帝の一、姓は姫、号は軒轅氏、炎帝を破り、蚩尤を倒して天下を統一、養蚕、舟車、文字、音律、医学、算数などを制定したという、陝西省の黄陵に祭られ、炎帝とともに漢民族の始祖として尊ばれる 西安の大明宮遺跡

西安西郊外見所、観光スポット(観光地)の写真集
付近から出土された身長50センチほどの前漢時代の埴輪が展示されています。 陝西省の昭陵、この近くに唐の二代目の皇帝、李世民が葬られた墓がある。        

西安南郊外見所、観光スポット(観光地)の写真集
長安県にある。あたりは広々とした畑が続く、こ唐代(669年)の創建、高僧玄奘法師(三蔵法師)の遺骨を葬っている所として 、有名。赤茶色の土塀に囲まれた寺内には松・竹・梅・牡丹など植えられ また、日本佛教協会による記念碑は清楚に建立されていた。住人は全員で40名も此処で生活をしている、自給自足らしい。 玄奘三蔵法師の舎利塔、13歳で出家、21歳で受戒した玄奘は28歳の時、煩悶したすえ佛典を求めてインドに旅たった。苦節17年、西域諸国を巡り、多くの佛典を携えて長安に戻り、太宗李世民の大歓迎を受ける。 最も高い5層の塔が玄奘の舎利塔で、左右のものは玄奘の高弟 窺基と円測(新羅の出身)の墓塔。いずれも石刻の塔銘と泥塑像がある。 香積寺---日本浄土真宗の発祥地。 西安の一番高い山「太白山」、主峰は3767M 秦嶺山脈にある「高観滝」 西安の渭水
西安のサンが 地震、火山爆発などによってなった中国国内で稀な山崩れ地形--「翠華山」 農家の楽しみ。 秦嶺山脈にある休日を過ごす山荘 西安の植物園 西安の秦嶺山脈にある「太平浴林森公園」、市内の人達が休日を過ごす良い場所である。

西安一日間終日観光:西安日本語観光ガイドつき、西安観光専用車(セダン、ワゴン車)をチャーター、西安市内観光+西安郊外観光、一日間日帰り充実西安観光