〇第1日目の目的地「蘭州」へ、西安空港経由で出発。
〇各自責任ある行動で楽しく有意義な旅、移動室にいたしましょう。
蘭州市(ランシュウ
シ)
甘粛省の省都、蘭州は西安の北西約600km、海抜1500m、省の東部に位置します、青海省に源を発した黄河が始めて通過する大都市で、黄河の両岸に沿って発達してきました。黄河から西を河西地方という。河西地方は地形が細く長いため、河西回廊、または河西走廊と言われている。従って今回のコースは河西回廊の旅とも言えるのです。
現在は中国西北部最大の工業都市にまで発展した蘭州であるが素朴な郊外の風景とギャップが私達の目を驚かすことでしょう。
漢族のほかに回族、満州族、チベット族、モンゴル族など40以上の民族が進んでおり、様々な文化や風俗の違いは見ていて楽しい。
劉家峡(リュウカキョウ)ダム
蘭州から南西に約100kmの永靖県東南、黄河峡谷にある。中国有数の発電所で、堰堤の長さ840メートル、高さ147メートル、貯水量57億立方メートル、出力122万キロワット、湖の長さ65キロメートルの巨大な人造湖を形成している。発電のほか、洪水防止、水利利用施設などに活用され、更に最近は観光地として訪ねる人が多くなっている。
参考、日本の黒部ダムは、高さ186メートル、堰堤の長さ492メートル、貯水量2億トン、発電量33.5万キロワット。
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炳霊寺石窟(ヘイレイジセックツ)
石窟へ行くには劉家峡ダムから船に乗り、人造湖を約50キロメートル遡る。二つの支流が流れ込むため水は青く、周囲の黄色い山肌が迫る。この眺めは日本では絶対見られない絶景である。船で約2時間かかるが天上の巨大湖を行く贅沢な時間を楽しむのが良い。ただし天気に恵まれると紫外線が強いので帽子、長袖のシャツなど日焼け対策は十分だに。
炳霊とはチベット語で千仏、十万仏と言う意味。積石山の峡谷南北の絶壁約3キロにわたって上下4層に窟籠と造像が彫られている。西秦代(385〜431)から清代にいたる窟籠には大小合わせて694体の石像と82体の泥塑像があるが、約3分の2は唐代のもの、インド仏教の影響を受け生気と生命力にあふれている。
第169窟(特別料金が必要)には「西秦建弘元年」(420年)の墨書の題記がのこされており、敦煌、麦積山と並んで炳霊寺石窟が中国の石窟寺として最初期のものであることが示されている。 |
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蘭州より武威市へ移動、途中海抜2700Mの鳥鞘嶺を越える、かつて三蔵法師も越えたところ、窓外には切れ切れに万里の長城が続く、いよいよ河西回廊に入る。南に祁連山脈が走り、北側には馬丞梹Rに連なる山々が続く中をバスは行く。
武威市(ブイシ)
武威は河西回廊東端に位置する町で、前漢武帝(紀元前159〜紀元前87年)が回廊に設置した四郡のうちの涼州にあたる。漢の時代以後も軍事処点として重要視されたが中原からは遠く、漢民族の力が弱くなると周辺異民族の侵入を受ける歴史を繰り換えしてきた。
この涼州(武威)地方で歌われいた曲につけた詞(詩)を涼州詞といい、のちにこれに作った詞(詩)をも含めて涼州詞(詩)と言うようになった。
注:河西4州(涼州、甘州,粛州、沙州)の歌を涼州詞という説もあり。
王翰、岑参、張籍、王之渙などの詩人が多くの名作を残している。
文廟(
ブンビョウ)
武威市の市街の東南隅にある。明の正統2年(1437)に建立された。廟内にある西夏碑は「学宮の冠」といわれ、正式には「重修護国寺感応塔碑」といいます。表に西夏文、裏に漢文で書かれ、双方を対照することが出来る第一級の資料です。独自の文化を築いた遊牧民国家、西夏王国の西夏文字を今に伝えているのですが、西夏文化は王国の滅亡とともに歴史から消えていった幻の文字であり文化でもあったのです。文廟そのものは孔子を祀った廟です。 |
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雷台墓(ライダイボ)
武威市の市街北1キロにある。雷台は土を築いた台で、高さ8.5メートル、南北に106メートル、東西60メートル、前涼王の張茂(在位320〜324)霊鈞台を築いて宮殿を造営したと伝えられ、明代に雷を祀って雨乞いしてから雷台といわれるようになった。墓はこの台の下にある。1969年に発見された大型のh磚室墓、後漢の将軍張秀の墓で、背をかがめて墓道を行くと前室、中室、後室がある。ここに青銅製の奔馬、車馬儀礼隊など二百数十点の文物が残されていた。馬踏飛燕とも天馬とも呼ばれる銅奔馬は特に有名である。 |
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大雲寺古鐘楼(ダイウンジコショウロウ)
武威市の市街の東北隅身ある。唐の則天武后弥勒菩薩の下生であるとした偽作の大雲経をしんじた則天武后二よって全国大雲寺が立てられた折に、もと宏蔵寺と言われたこの寺も名を改め、銅鐘が鋳造された。山門を入ると東晋のころの古鐘楼があり、この楼上に銅鐘があり、高さ2.5メートル、下の直径1.45メートル、厚さ10センチ、重さ1.5トンの鐘は合金であり、銅のようにも金のようにも鉄のようにも見えるという。3層に分かれた装飾図案は、上に飛天、中に天王、下に竜が描かれている。「大雲暁鐘」は涼州八景の一つ。 |
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張掖市(チョウエキシ)
張掖は前漢の武帝が河西回廊を定めたおり、「匈奴の右臂を断ち、中国の臂腋を張る」と言う旬によった名だといわれている。古くから「金張掖」「銀武威」といわれ、河西回廊のオアシス都市として栄えていた。甘州ともよばれ、隋の時には国際貿易博覧会が開かれているほどである。元代にはマルコポーロがフビライ・ハンに謁見するまでの1年間をこの町で過ごしている。祁連山脈の雪解け水を源とする黒河とその支流によって肥沃な大地となり古くから良質の米を産する穀倉地代となってきた。
大仏寺(
ダイブツジ)
大仏寺は今から約900年前の(1098年)創建といわれ、張掖で一番の見もの釈迦涅槃像がある。全長35メートル、肩幅7.5メートル、背後には迦葉、阿難などの十大弟子、両脇には十八羅漢と合計28体の塑像がある。回廊の壁画には仏伝や「西遊記」の物語を表す壁画がある。マルコポーロもこの涅槃像に触れている。大仏殿の後ろには蔵経閣があり国宝に指定されている金泥の経や古代交易の証となるペルシャの銀貨などが所蔵されている。 |
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馬蹄寺石窟(
バテイジセックツ)
張掖市の南約65キロに祁連山の馬蹄河の西岸にある石窟群で、北寺、南寺、金寺、文殊山、千仏洞などの7つの石窟がある。一般公開されているのは北寺石窟で馬蹄山の中腹にあり内部には元代から明代にかけて作成された造像や壁画が残っている。 |
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酒泉市(
シュセンシ)
古くは粛州とよばれた緑豊かな町で、西の嘉峪関都遊牧民族の本処地モンゴル高原への分岐点であり、早くから交易の要衝として発展するとともにシルクロードの貿易の利益確保のための軍事的拠点でもあった。涼州詞に出てくる夜光杯の産地としても有名である。
酒泉公園(
シュセンコウエン)
匈奴討伐に活躍した前漢の驃騎将軍閣霍去病(カクキョヘイ)が匈奴討伐で大勝利した時武帝は酒を賜ってその功を労った。霍去病は苦楽をともにした全軍の兵士にその酒を飲ませたいと思ったが酒の量はあまりにも少ない、そこで金泉という泉に酒を注ぎ全兵士に飲ませようとした、すると泉水はたちどころに芳醇酒となり尽きることがなかったという。以来この泉を酒泉と呼び地名となったという。
この泉の手前には李白の「月下独酌」の詩句が刻まれている。
「天若し酒を愛せざれば 酒星天に在らず、地若し酒を愛せざれば 地応に酒泉無かるべし」(天がもし酒を好まなければ、酒星は天にあるまい。地がもし酒を好まなければ、地に酒泉はないはずだ。) |
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鐘鼓楼(ショウコロウ)
酒泉のシンボルとして街の中央に建っている、東迎華岳・南望祁連・西達伊吾・北通砂漠という扁額がそれぞれ掛けられていて、酒泉の地理の重要性をよく表している。現在の木造3層の楼は清代に再建されたもの。 |
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夜光杯工場(ヤコウハイ)
祁連山から産出する玉の原石を加工して作る「夜光杯」は酒泉の特産物。夜光杯は黒に近い濃い緑から、透けるような薄い緑まで、様々な色と自然の紋様がある。透き通った部分が月光を受けきらりと光ったので、夜光杯と呼ばれているというから、買うなら紋様をよく吟味して選んでく下さい。 |
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第6日目
魏晋壁画墓・懸壁長城・万里長城第一敦(土偏に敦という字)へ |
嘉峪関市(
カヨクカンシ)
酒泉市の西北22キロにある。歴史的には明代長城の終点としてしられている。鏡鉄山の鉄鉱石によって製鉄を主とし、電力、セメント、化学、機械、食品などの工業が盛んな新興都市である。
乾燥地帯なので、西瓜、玉葱などが農業の主生産品として知られている。
魏晋壁画墓(
ギシンヘキガボ)
嘉峪関市の北東20キロ、ゴビ灘の中にある。周囲10キロ以内に魏晋時代(220〜419)の墓1000余基ある。1972年〜79年にかけて13基をは窟調査したがすべて盗掘されていた。出土した壁画は仏教色の濃い敦煌莫高窟と違い、日常の生活を描いた一磚一画の小品がほとんどである、磚の大きさは34.5センチ×17センチ、農業、牧畜、狩猟、炊事、歌舞音曲などが軽快な筆致で描かれている。 |
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懸壁長城(ケンベキチョウジョウ)
嘉峪関から西長城の北に延びる最西端は黒山の急斜面(45度)をまっすぐに山頂をめざしている。鉄壁懸空の状態にあるので懸壁長城の名がついた。明代につくられた長城の西限である。 |
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万里長城第一敦(
土偏に敦という字)
(バンリチョウジョウダイイットン)
嘉峪関から南南に延びる長城は15キロをへだてて討頼河畔で終わる。2.5キロごとに烽火台がある |
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嘉峪関(
カヨクカン)
巨大な龍にたとえられる万里の長城、龍の頭が東方の山海関(河北省)ならば6350キロもの長い距離を延ばし続けてきた長城、巨龍の尾は「河西第一隘口」とよばれるこの嘉峪関、「天下雄関」と讃えられている。東西両門の前には防御強化の為の甕城があり、内城は東壁が154、南北が各160、西壁が166の台形、城壁の高さ10.7、東西両門の上には高さ17 3層の楼閣が建てっている。東を光化楼、西を柔遠楼という。城内には400人の兵士が常駐し、兵舎、倉庫などがあったといわれているが、いまは遊撃将軍府と宮井を残すのみ、造営した当時、工匠が正確に計算したもので完成したときには磚(レンガ)が一つ残っただけと伝えられ、その残った磚が西門の甕城の門楼背後、軒の上にある。お見逃しなく。
また東西の門の内側に「撃石燕鳴」の石がある。城内に住む燕の夫婦のうち雄が道に迷い、やっとのことで戻ってくると門がとざされていて、悲しみのあまり城壁にぶつかった……
大石を石で撃つといまもその悲しい囀りが聞こえてくるというのだ、時間があればお試しを。
関を出てから馬zong山を背景にした嘉峪関の前景は、お見事というほかはなし。 |
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楡林窟(ユリンクツ)
楡林窟は唐代初期に造窟が始まったといわれ、五代、宋代、西夏、元代、清代の計41窟が楡林河峡谷の東西両岸にある。万仏峡ともいう。楡林窟を代表するのは精美な壁画である。特に第25窟の八大菩薩曼荼羅経変、普賢変、文殊変、観無量寿経変、弥勒経変は盛唐時代の傑作といわれている。
また西夏芸術の水準の高さを示す、第2、第3窟の小月観音と普賢菩薩、第10窟の天馬、伎楽天、第29窟の供養者と童僕がある。彩色の鮮やかさは莫高窟にもまさるといわれている。
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第8日目 玉門関・前漢長安城遺跡・河倉遺跡・陽関へ |
敦煌市(
トンコウシ)
敦煌市は甘粛省における河西回廊西端のゴビ灘の中に位置する都市で海抜約1700メートル、祁連山に源を発する党河流域における最大のオアシスとして長遠の時刻を刻んできた。敦煌の「敦」は「大きく」、「煌」は「かがやく」の意。いまでは世界遺産「莫高窟」によって世界中に知られわたっている。
古くは瓜州、沙州などとよばれ、漢民族の西方進出の重要拠点で、漢は西に玉門関と陽関の関を置き長城を玉門関まで延ばしている。唐代中期には一時土暑セに占領され、宋代には西夏の支配下におかれ、明代になってようやく漢民族の支配に入り、沙州衛がおかれ、清代に敦煌県となっている。現在でも西と北は新疆ウイグル自治区、南は青海からチベットに通ずる甘粛省西部の交通の要衝である。
年間降雨量39mm,年間蒸発量2400mmという乾燥地帯でありながら、祁連山脈からの地下水脈は豊かであり農業は盛んで、小麦、トウモロコシ、麻、綿花、瓜、西瓜、ブドウなどが主出産物である。 |
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玉門関(
ギョクモンカン)
敦煌市西北約90キロの砂漠に遺跡がある。前漢時代、漢民族の国家権力が及ぶ最西端であり、攻防の最前線であった。おそらく敦煌郡の設置より古くに構築されていたのではないか。
和tian(現在の和田市一帯)産の玉を中原へ運ぶ時の中継地に関所を構えたので玉門関という。遺跡は黄土の版築①で東西24m、南北26.4m、高さ9.7m、面積633立方メートルで西北両面に1門ずつ設けてある。
注;①
中国の基壇や土壁の施行方法。玉石を敷いた上に粘土を棒で突き固めて重ねていく方法などがある。日本へは飛鳥時代に仏教建築とともに伝来。
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前漢長城遺跡(
ゼンカンチョウジョウイセキ)
2000年余りにわたって風砂に侵蝕されてきたが、いまなおゴビ灘にじりつしている部分を残すが、玉門関付近が保存状態がよい。砂礫に葦、紅柳、胡楊、羅布麻を配し、1層ずつつき固めたのがよく分かる。
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河倉城遺跡(
カソウジョウイセキ)
大方盤城(ダイホウバンジョウ)というが俗に河倉城という。漢代の造営で、魏晋代まで西部防衛線の兵糧備蓄倉庫として使われた。
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陽関(ヨウカン)
敦煌市の西方約70キロにある。古代シルクロードの西域南路の最西端の重要な軍事拠点であった。玉門関の陽(南)に位置するので陽関という。三面を砂丘に囲まれ、北面の曙ハ曙ハ山に保存の良い紅褐色の烽火台が残っている。
三蔵法師が天竺から帰国した時にここを通っている。
西方にひろがる白龍堆という大砂漠、唐代末には風砂による侵蝕がひどく、宋代には人々が撤退し、関は砂に埋もれてしまった。しかし唐代の詩人王維の詩句「西のかた陽関を出ずれば古人名無からん」によって人々の記憶から消えることはなかったが、その所在地は長い年月の間不明であった。
1972年、酒泉地区文物調査隊が大型の版築遺跡を発見し、陽関であると断定した。 |
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莫高窟(バッコウクツ)世界遺産
敦煌周辺には多くの石窟寺院があるが、莫高窟とよばれる千仏洞は鳴沙山東の断崖に開削された大規模な石窟で、大同の雲崗、洛陽の龍門と並ぶ中国三大石窟の一つである。
4世紀半、僧楽尊が夕日を浴びて輝く千仏の威厳を感じ、鳴沙山の東壁に石窟を築き、以来およそ1000年以上の長い年月にわたって造営され、東西文化交流点に出現した仏教芸術の宝庫といわれている。
莫高窟には普通の入場料で見学できる窟と特別料金が必要な窟がある。開放されている窟全部を見学するには急いでも最低2日はかかるので見学時間を考えながら有効に見学することが必要。開放窟のガイドはとても書ききれないので専門書の活用をおすすめいたします。(現地で手に入ります。)
開放窟番号
一般窟 特別窟(別料金 100元〜500元)
16,17,26,29、
96,130,148,231、
249,257,328,427、
428,454
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45,57,156,158、
159,217,220,254、
275,285,322,465 |
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鳴沙山(メイサザン)
敦煌市の南約5キロにある、東西40キロ、南北20キロに及ぶ大砂丘群、広大な砂の峰、それが鳴沙山だ。古文献によれば、砂丘は夏の暑い日に自ら鳴り出し、金鼓の音がするという、「沙嶺晴鳴」とよばれ、人馬が踏めば数十里に鳴り響き、端午の日に城中の子女が皆登り一斉に駆け降りると雷のように鳴り響いたという。このことから「鳴沙山」とよばれるようになった。一般に見学するのは、月牙泉を抱く砂丘群、高さ50mから60mの砂山であるが入り口でラクダに乗って月牙泉のある沙山の麓まで行くのが普通、ただしラクダを引く人達の中にはかなりの悪い(いやないい方ですが昔の雲助のような)がいますので要注意、念の為。 |
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月牙泉(
ゲッガセン)
月牙泉は鳴沙山の谷間に沸く三日月形の泉で、東西約200m 幅約50m、深さ5mで、漢代から遊牧の地としてしられていた。どんな時にも水が枯れることがないといわれていたが近年は水量が減り、その原因も分からず関係者の頭痛の種である、これも開発の影響かと?
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西安市へ移動。
西安経由で帰国の途へ
無事元気な姿で帰宅されますように祈っております。
お問い合わせ:xiaojunn@gmail.com
岑參 辺塞の詩
胡 笳
歌
(胡笳歌送顔真卿使赴河隴)
君不聞胡笳聲最悲 紫髯緑眼胡人吹
吹之一曲猶未了 愁殺楼蘭征戍児
凉秋八月蕭關道 北風吹断天山草
崑崙山南月欲斜 胡人向月吹胡笳
胡笳怨兮将送君 秦山遥望隴山雲
邊城夜夜多愁夢 向月胡笳誰喜聞
「読み方」
過 燕 支 寄 杜 位
燕支山西酒泉道 北風吹沙巻白草
長安遥在日光邊 憶君不見令人老
「読み方」
逢 人 京 使
故国東望路漫漫 雙袖龍鍾涙不乾
馬上相逢无紙筆 憑君傳語報平安
「読み方」
磧 中 作
走馬西來欲到天 辭家見月両囘圓
今夜不知何處宿 平沙萬里絶人烟
「読み方:① ②」
日 没 賀 延 磧 作
沙上見日出 沙上見日没
悔向萬里來 功名是何物
「読み方」
天宝十四年、玉門関に立ち寄った時の作
玉 門 関 寄 長 安 李 主 簿
東去長安萬餘里 故人何惜一行書
玉關西望堪腸斷 況復明朝是歳除
「読み方」
酒泉太守席上酒後作 岑參
酒泉太守能劍舞 高堂置酒夜聲鼓
胡歌一曲斷人腸 坐客相看涙如雨
「読み方」
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「読み方」
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葡萄美酒夜光杯 欲飲琵琶馬上催
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「読み方」
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羌笛何須怨楊柳 春光不度玉門關
「読み方」
送 元 二 使 安 西 王維
(渭城朝雨)
渭城朝雨諸`輕塵 客舍青青柳色新
勸君更盡一杯酒 西出陽關無故人
(無無無故人西出陽關無故人)
「読み方」
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