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西安チャーター、西安五丈原

 西  安  観  光  案 内  五丈原

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西安及び周辺の観光地 情報
 諸葛孔明ゆかりの遺跡   

西安三国誌ゆかりの遺跡五丈原を巡る日帰り観光

司馬懿仲達ゆかりの遺跡
①古葫蘆峪 ①古葫蘆峪
②魏延城 ②三刀嶺
③諸葛泉 ③馬刨泉
④十三盤盤道  
⑤五丈原諸葛亮廟  
豁落城 ④拝相台
諸葛鍋  
⑧諸葛田  
⑨落星湾(村)  
⑩斜谷関  
⑪基盤山  
⑫九龍山  
   
   
   
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五丈原(ごじょうげん) / WuZhangYuan / ウージャンユェン

八百里秦川の西、太白山北麓の宝鶏市歧山県五丈原鎮は、三国時代諸葛亮が大軍を率いて駐屯し、死力を尽くして戦った古戦場で、その名は広く知れ渡る。

五丈原がなぜ「五丈」と言うのかには、三つの説がある。一説は、原の広さが狭く、わずかに五丈ほどだから、二説は、秦二世がここに来た時、五丈の高さの竜巻がおこったから、三説は、この原の高さが五十丈余りあり、もともと五十丈原と呼んでいたが、口々に伝わるうちに、五丈原と省略された。五丈原の主要な古跡は、諸葛廟(武侯祠)で、廟内には扁額、題辞、碑記、碑刻、壁画、塑像などがある。廟の外にある遺跡には、豁落城、諸葛鍋、棋盤山、諸葛泉、諸葛田、盤盤道、魏延城、古葫蘆峪遺跡、石碑などがある。

『三国志』などの史書によると、蜀漢建光12年(234年)春、諸葛亮はそれまで4度行なってきた魏討伐のルートを変えた。10万の大軍を率いて漢中を出て、秦漢時代の古桟道にそって、荒地の中、危険を冒して進軍し、一気に秦蜀道の喉もとにあたる要塞、斜峪関に入った。そしてすぐに西の峰へ向かい、五丈原を占領し、営舎を設け、兵を分けて駐屯させ、戦にそなえた。「先に五丈原を収め、兵を分散させて渭水の南に駐屯す」は、当時の様子を如実に伝えている。智謀に長けた蜀の丞相諸葛には考えがあった。司馬懿は諸葛亮軍の北上を知り、斜峪に道をとり、諸将に言った。「亮が勇者であったら、武功に出て、山にそって東に進む。西に進み五丈原に出たならば、我が軍は事なきを得るであろう」はたして諸葛亮は五丈原に出、渭水を北へ渡ろうとした。諸葛は、これまでの魏討伐の失敗の原因は、兵糧の不足にあると考えていた。今回は木牛流馬という簡単な機械仕掛けの運搬車を使って、兵糧を運んだが、限りがある。屯田地が、五丈原の渭水の南岸のわずかな土地では、稔りの時期であっても、10万の大軍を維持するには足りない。そこで司馬懿は、蜀軍の兵糧が尽きるのを待ち、徹底して守りを固めた。孔明は何度も使者に遣わせ、女物の頭巾や服をもたせて、臆病者と揶揄して、怒らせ戦いに持ち込もうとした。だが、老獪な魏国の元帥は、騙されてはならぬと進言し司馬懿が動くことはなかった。この間に諸葛は、度重なる苦労がたたり、病に倒れ、その年の8月、五丈原の陣中で逝去する。享年54歳。のちに人々は、この忠義の蜀の良相を記念して、五丈原の北に祠と廟を建てた。元代から建築が始められ、代々修築が繰り返された。廟宇は堂々とした、たたずまいで、多くの碑石がたち、木々がうっそうと茂っている。「盤盤道」から原へ出られる。祠廟の門楼はレンガと木からできている。門の横木の中央には「漢室孤忠」の四字が刻まれている。門の西には人の背丈よりも高い碑がある。表面に『重修五丈原武侯廟碑記』と彫られている。碑記や蘇軾の『題五丈原武侯廟』から考えると、おそらく北宋末に創建されたものであろう。

武侯廟の廟門には、現在「五丈原諸葛亮廟」の扁額がかけられている。入口の両側には対聯がある。山門から入ると、庭があり、東西には鐘楼、鼓楼が左右対称にそびえ立ち、互いに響きあう。ここから中に入ると、大きくて雅やかな献殿がある。その左右の壁には清代の彩色された壁画がかけられている。東の壁には方形の70cmほどの石がはめ込まれ、岳飛の書いた諸葛亮の『前後出師表』が刻まれている。諸葛の文とともに「両絶碑」と称される。正殿は3間で、左右に1間の陪殿がある。正殿のまん中には諸葛孔明の彩色された泥人形の坐像がある。あたりには姜維、楊儀、関興、張苞、王平、廖化の塑像がある。廟内には諸葛亮の衣冠塚があり、塚の横には星亭がある。亭の中には、青褐色のでこぼこの石が一つある。これは、諸葛亮が亡くなった時、天井から落ちてきた隕石だと言われる。五丈原の東には落星湾、星落坡などの地名がある。この石から言われるようになったという。

現在の五丈原は、歴史的な遺跡だけでなく、新たな景観も加わっている。アジア最大のダム、斜峪関ダムだ。114m、目が眩むような高さだ。車で行っても何度もハンドルを切らなければならない。ダムの上に登ると、眼下に古戦場と青い水が見える。この地の大きな変化に驚き、この地の美しさに深く感じ入ることだろう

 

葫蘆谷(上方谷)
 
三国志演義で諸葛亮が司馬懿と魏延を焼き殺し損ねたところ。現地では葫蘆峪(ころよく)と呼ばれる。諸葛亮の計により、谷間に追い
詰められた司馬懿を火攻めにし、それを追いかけていた謀反の気があった魏延ともども焼き殺そうとした。しかし、運悪く大雨が降り始め、
司馬懿と魏延の天命は尽きていなかったという場所だ。諸葛亮ファンは、この場面で地団駄踏んで悔しがったのではないだろうか。かくいう
私もそうであった。ここで司馬懿が死んでいれば!ということで、現在、ここには2000年に建ったばかりの諸葛亮廟があり、葫蘆峪と書かれ
た石碑には、司馬懿、司馬師、司馬昭、魏延、魏明帝、姜維、諸葛亮、劉禅の8名の名が刻まれている。なお、地図では確認できな
かったので、さらなる調査が必要だろう(湯峪鎮という地名は確認できたが・・・。

 
諸葛泉
 
現地では諸葛井と呼ばれる、五丈原の登り口にある。当時、毎日当番の兵(諸葛孔明の兵)がここに水を汲みに来ていたが、今は水がまだわいています。
 

五丈原諸葛亮廟(武候祠)
 

坂を登りつめると階段になっていて五丈原の石碑の向こうに武候祠が建っている。廟は宋の時代に建てられたが、明、清時代に9回建て
直し、今もところどころ修復されている。鐘楼、鼓楼のほか、「矢を借りる」や「空城の計」など演義の名場面が描かれた彩色壁画や、岳
飛が書いた「出師の表」が彫られた献殿がある。また、ここには諸葛亮像はもちろんであるが、楊儀、姜維、魏延、馬岱、王平、費い、蒋
えんなどの武将像のほか、黄月英婦人の像があるのが珍しい(ここだけ)。襄陽の名士、黄承彦の娘だが、醜いものの才智は優れていた
と言われている。木牛流馬は一説によると婦人の発案という話もある。
 

豁落城遺跡
 

五丈原の一角、武候祠の南に落星村があり、そこにこの遺跡はある。建物はなく、土の城壁だけがわずかに残っているだけだ。基盤山と
五丈原を結ぶ地峡に近いところなので、東西が深い谷に臨んでいる。これが諸葛亮の本陣跡だ。諸葛亮臨終のとき、大きな星が本陣に
落ちたと言われている。そこで、ここを豁落(かつらく)城、陣の下の谷間を落星湾、谷間を落星堡と呼ばれている。落星村はその総称な
んだろう。また、しゃれた名前を付けたものだ。