五丈原(ごじょうげん) / WuZhangYuan / ウージャンユェン
八百里秦川の西、太白山北麓の宝鶏市歧山県五丈原鎮は、三国時代諸葛亮が大軍を率いて駐屯し、死力を尽くして戦った古戦場で、その名は広く知れ渡る。
五丈原がなぜ「五丈」と言うのかには、三つの説がある。一説は、原の広さが狭く、わずかに五丈ほどだから、二説は、秦二世がここに来た時、五丈の高さの竜巻がおこったから、三説は、この原の高さが五十丈余りあり、もともと五十丈原と呼んでいたが、口々に伝わるうちに、五丈原と省略された。五丈原の主要な古跡は、諸葛廟(武侯祠)で、廟内には扁額、題辞、碑記、碑刻、壁画、塑像などがある。廟の外にある遺跡には、豁落城、諸葛鍋、棋盤山、諸葛泉、諸葛田、盤盤道、魏延城、古葫蘆峪遺跡、石碑などがある。
『三国志』などの史書によると、蜀漢建光12年(234年)春、諸葛亮はそれまで4度行なってきた魏討伐のルートを変えた。10万の大軍を率いて漢中を出て、秦漢時代の古桟道にそって、荒地の中、危険を冒して進軍し、一気に秦蜀道の喉もとにあたる要塞、斜峪関に入った。そしてすぐに西の峰へ向かい、五丈原を占領し、営舎を設け、兵を分けて駐屯させ、戦にそなえた。「先に五丈原を収め、兵を分散させて渭水の南に駐屯す」は、当時の様子を如実に伝えている。智謀に長けた蜀の丞相諸葛には考えがあった。司馬懿は諸葛亮軍の北上を知り、斜峪に道をとり、諸将に言った。「亮が勇者であったら、武功に出て、山にそって東に進む。西に進み五丈原に出たならば、我が軍は事なきを得るであろう」はたして諸葛亮は五丈原に出、渭水を北へ渡ろうとした。諸葛は、これまでの魏討伐の失敗の原因は、兵糧の不足にあると考えていた。今回は木牛流馬という簡単な機械仕掛けの運搬車を使って、兵糧を運んだが、限りがある。屯田地が、五丈原の渭水の南岸のわずかな土地では、稔りの時期であっても、10万の大軍を維持するには足りない。そこで司馬懿は、蜀軍の兵糧が尽きるのを待ち、徹底して守りを固めた。孔明は何度も使者に遣わせ、女物の頭巾や服をもたせて、臆病者と揶揄して、怒らせ戦いに持ち込もうとした。だが、老獪な魏国の元帥は、騙されてはならぬと進言し司馬懿が動くことはなかった。この間に諸葛は、度重なる苦労がたたり、病に倒れ、その年の8月、五丈原の陣中で逝去する。享年54歳。のちに人々は、この忠義の蜀の良相を記念して、五丈原の北に祠と廟を建てた。元代から建築が始められ、代々修築が繰り返された。廟宇は堂々とした、たたずまいで、多くの碑石がたち、木々がうっそうと茂っている。「盤盤道」から原へ出られる。祠廟の門楼はレンガと木からできている。門の横木の中央には「漢室孤忠」の四字が刻まれている。門の西には人の背丈よりも高い碑がある。表面に『重修五丈原武侯廟碑記』と彫られている。碑記や蘇軾の『題五丈原武侯廟』から考えると、おそらく北宋末に創建されたものであろう。
武侯廟の廟門には、現在「五丈原諸葛亮廟」の扁額がかけられている。入口の両側には対聯がある。山門から入ると、庭があり、東西には鐘楼、鼓楼が左右対称にそびえ立ち、互いに響きあう。ここから中に入ると、大きくて雅やかな献殿がある。その左右の壁には清代の彩色された壁画がかけられている。東の壁には方形の70cmほどの石がはめ込まれ、岳飛の書いた諸葛亮の『前後出師表』が刻まれている。諸葛の文とともに「両絶碑」と称される。正殿は3間で、左右に1間の陪殿がある。正殿のまん中には諸葛孔明の彩色された泥人形の坐像がある。あたりには姜維、楊儀、関興、張苞、王平、廖化の塑像がある。廟内には諸葛亮の衣冠塚があり、塚の横には星亭がある。亭の中には、青褐色のでこぼこの石が一つある。これは、諸葛亮が亡くなった時、天井から落ちてきた隕石だと言われる。五丈原の東には落星湾、星落坡などの地名がある。この石から言われるようになったという。
現在の五丈原は、歴史的な遺跡だけでなく、新たな景観も加わっている。アジア最大のダム、斜峪関ダムだ。114m、目が眩むような高さだ。車で行っても何度もハンドルを切らなければならない。ダムの上に登ると、眼下に古戦場と青い水が見える。この地の大きな変化に驚き、この地の美しさに深く感じ入ることだろう