文武大臣には李斯、王翦、蒙恬、尉繚などがいる。紀元前 238 年、秦王政はもう 22 才で、かれは自ら執政し、
国家大事を極かった。かれはやっている始めての事は長信侯毐の叛亂を平息した。翌年、かれは又、呂不韋の相權を免去した。呂不韋を四川へ貶した。それによって、呂不韋は自殺した。
国內を六国を兼併する戰爭を始めた。紀元前 230 年、かれは內史騰を派遣して、韓国を滅した。紀元前 228 年、王翦などは趙
国を滅した。紀元前 225 年、王賁は魏 国を滅した。紀元前 223 年、王翦、蒙武は楚 国を滅した。紀元前 222 年、王賁は燕
国を滅した。紀元前 221 年、王賁は齊 国を滅した。この年から、春秋戰国以後、中国大地に諸侯爭霸で、
連年に混戰の局面は終って、六国は秦によって統一された。秦の疆域は東南は海まで、西は臨まで、北は陰山至る遼東一綫までになった。この時贏政は始めて
39 才である。
六国を統一したあと、贏政は白分が徳は三皇より高く、功は五帝を過ぎて、号稱は皇帝すべき。それ以後、中国歴代の君主は皆皇帝と稱する。贏政は始皇帝と稱し、意はかれから始めるというので、かれの子孫は二世、三世至る万代まで無窮に傳える。かれはそろった封建帝国を統一するのを維護する措施を推行した。かれは殷、周以來の分封制を廢除して、郡縣制を實行した。全両に
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郡を設置し、郡の下に縣を設して、縣の下に郷、亭、裹を設して、即ち郡、縣、郷、亭、裏という政權體制を確立した。中央に三公九卿を設し、皇帝に助けて、
国家大事を行う。こうして中央から地方まで、一切の權力は皇帝に集中して、大いに中央集權制という君主の支配を強めた。中央から度量衡の標准器を頒發して、全国の度量衡制度を統一した。又、車軌の幅は六尺を決めて秦の小篆を全国の通用文字を決めた。即ち車同軌、書同文というである。思想文化を統一するため、かれは全国で焚書坑儒の行動を行って、秦国に利かない儒家著作及び各国の史書を燒いてしまった。
咸陽の 渭水の畔に一回 400 の儒生を殺した。又驪山の麓の下に 700 余名の儒生を生きて埋めた。
これらの措施は全国の政治、經濟、軍事、文化思想上に高度の統一を達した。政務に對して、この始皇帝は非常に重視し、かれは毎日各地からの文書を見て
( その時、木、竹の片に刻んっだので ) 、毎日見たのは 120
斤あった。この数字にならなければ休まない。常に深夜までに讀んだ。かれは全国至るに馳道を築くのを命じて、咸陽から北の方に通じる道を築いた。かれは
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回車に乘って馳道に沿うて、全国を出巡された。西へ今の甘肅の東まで、東と南へ今の山東、江蘇、浙江へ行った。どの地に著くと、石を刻み碑を立って、
皇帝の功徳を統一し宣揚した。国民に秦の法律を守らなければならないのを命じた。北方の領土を守るために、大將蒙恬をして、軍隊を率いて、匈奴を防いだ。又戰国時代に各国の長城を連がって、西は甘肅の岷山から、東は遼東まであわせて
1 万餘である。万里長城と稱した。これは我が
国古代の勤勞人民は一つの偉大な工事では、世界の奇跡の─つでもある。南方では、秦始皇帝は兵を派して五嶺を戍守した。靈渠を開いた。これらの措施は統一国家の建設に對して、程度でない役立ちをした。だから、明代の思想家李
は秦始皇を千古一帝を稱した。又思想家は中 国の 2000 年の封建社會の政治は皆秦政で、これは道理があるべきである。
秦始皇は中国歴史上に大變有名な傑出の人物であり、又一人の極內て殘忍專斷の暴君でもある。秦は天下を統一してから、始皇帝は統一成果を強めるため、多くの有益な措施を實行した同時に樣樣な殘暴の事をやった。かれは
13 才即位したばかり自己陵墓を修建して、統一してからその工事をなやくした。
自己の奢侈豪華の生活をするため、全国で多くの離宮別館を建てた。いわゆか關內に三百、關外に四百餘という規模があった。史書によって,當時,秦始皇陵と阿房宮の工事に從事した勞動者は
70 万人以上であった。 統計によって、當時、全中国に 2000 万人いる。各種の勞役者は 200 万人に達して、全 国人口の
10 分の 1
を占めている。大量の勞動力はこれらのぜいたく性建築をたって、農業生産を離れて、これは自然經濟の下に嚴しく社會經濟の發展を制約し影響した。當時全
国の有限な財力、人力、物力お大いに土木工事に從事したので,男子は耕しても糧餉に足らず,女子は紡績しても帷幕に足りないという狀態になった。また力役は古代の
30 倍になっての局面である。
更に悲しむのは秦始皇は非常に迷信で、五行學説の影響を受けて,かれは得た江山は容易でないのを知って,二代、三代……万代まで傳えるのを希望しても、死を非常におそれて、十分に方士らの提出した長生不老を信じて,かれは百官と群臣を率いて,泰山へ封禪して、
5 回も大規模の出巡して,前に呼んで後に雍して、浩浩蕩蕩の陣列は民を労し,財を損して,その巡幸は全 国を威懾の目的したので )
、秦始皇は一生涯に一番死をおせて、第 5 回の出巡の車隊は平原津に至った時,
秦始皇帝は重病になって,群臣たちはかれに死を話す臣は一人もいなかった。しかし、事實は無情で、かれの病はますます重くなって、自己でも日が暮れるのを知って、長く生きられない。かれは死後の皇位の繼續を考えて、老成持重で、政治頭腦のある長男扶蘇を思出して
( 扶蘇は秦始皇の焚書坑儒政策に反對したので、北方へ監軍にして )
、始皇帝は扶蘇を皇位を受けさせて、隨侍の中車府令の趙高を公子扶蘇に書信を出させて、扶蘇をはやく咸陽に歸らせて、喪葬を守って,即位の准備するよう趙高に指示した。書信をよく封じて、趙高は遲く遲く出さなくて自分の手中に隱れている。出行の車隊は沙丘
( 今河北平郷 ) に行った時、秦始皇帝は呼吸停止した。人世を離れた。 50
才の命が終った。長生不老の藥は得ずばかりでなく、多回も出巡したので、長途の疲れて、疲れすぎて、死忘の過程をなやくしたのである。
秦始皇帝が死んで、丞相李斯は国に君主のないのをおそれて、若しすぐその死を宣処謔て、必ず天下大亂になって、すると、秘にして宣せずをめて、當時その死をった人はただ始皇の末子胡亥と中車府令趙高だけだった。かれらは秦始皇の遺體を溫度調節できる輼車中に入れて、毎日飯食を送って、
百官と奏事及び決斷は皆公子胡亥、中車府令趙高及び李斯から傳詔していた。それと同時に一つの權力を簒權する陰謀はこっそり行っている。趙高と胡亥は相談して、密秘にして胡亥を皇帝にした。李斯は趙高の誘惑と威逼の下に、利欲で熏して、胡亥を帝にしたのを贊成した。かれらは秦始皇のもとの詔書を簒改して、使者を派遣して、劍を持って,
北の邊關を屯守している公子扶蘇と大將蒙恬にあげてかれら二人を自殺させよと命じた。當時に扶蘇の為人正直で,又才能があって、百姓の雍戴を受けてかれらの簒權の大障害である。蒙恬は當時数
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万の大軍を率いて、北方で匈奴を防ぎ、胡亥は繼承權をうばうのは先ずこの二人を殺さなければならない。簒改された詔書を傳達するのは時間が必要で、扶蘇、蒙恬の死を待って,始皇の屍體を引く車隊はざに北へ進發して、九原を繞ぐって、咸陽へ折り回って、當時七月に當って,天気がとても暑くて、始皇の屍體は輼車中にいてもやはり腐って臭になって,趙高らは人入の身を隱れて、車に一石の鮑魚を載せて、その屍體車の後にいて,假臭で真臭を隱れていた。車隊は咸陽に近くする時,扶蘇、蒙恬の自殺のニユースが傳わってきた。すると李斯、趙高、胡亥は公式に發喪いせ、九月に秦始皇の屍體を始皇陵中に埋めた。即ち今の臨潼區の東の
5km の大封土の下に埋內めたのである。
秦始皇帝はどうしても思わずにはこんなはやいで人間を離れたのを思わない。趙高、李斯は詔書を簒改して、クデタしたのをどうしでも思わなかった。かれは扶蘇を皇帝にしても賜死した。胡亥は皇帝になった。秦二世になった。胡亥は小から,我がままで嬌生慣養して、政治頭腦がない。根本的に国家治理の才能がない。だから大權は趙高が獨攬して、遂に歴史上の有名な鹿を指して馬に為るという馬鹿な劇を演じた。二世の胡亥は政事を不理しても、その驕奢淫侈は真秦始皇帝より過があって、不及たない。社會の階級矛盾はもっと激しくなった。紀元前
209 年,中 国歴史上第一回農民大蜂起を暴發した。はやくて全国に席捲いてきた。はやく秦王朝をくつがえした。秦朝の存在の時間はわずか
15 年だけで ( 紀元前 221 前 206 年 ) 、しかし、その後、 2000 年の中
国封建社會の政治基礎を築いた。中国古代歴史の發展に對して、巨大な影響を起したのである。