咸陽東楼
咸陽東楼は2千年余りの歴史を持つ咸陽古都の歴史上の重要な景観地であり、秦代に咸陽楼を建てはじめ、最初は「咸陽東楼」と呼ばれ、漢代と唐代には「咸陽楼」と改名して、現在の咸陽市の明城区の東門外に位置します、北は咸陽城に寄りかかって立つ、南は渭水を見下ろす、古代から関中八景の一つ「咸陽古渡」で多くの文人墨客が訪れ、ここにいろいろな詩を書き残して、そのうち、最も有名な詩は晩唐の進士である許渾が書いた「咸陽城東楼」です:
宋代まで、咸陽楼は長年修理がされていません、宋仁宗(西暦紀元1034~1037年)は在位して、北宋の詩人である黄孝先が咸陽県知事に任命され、観景台として咸陽楼を再建して、そして題名を付け、“清渭楼”と言います、歴史上の黄鶴楼、鸛鶴楼、岳陽楼とは同じように有名でありました。残念ながら、後、破壊されてしまいました。 1954年、渭河の公路大橋の開通によって、千年の歴史を誇る「咸陽古渡」の舟運は急速に衰え、“清渭楼”は住宅として保存されて来ました。1992年、国家により歴史文化名城の重点保護部門に指定されて、咸陽政府は碑を立て“清渭楼”を保護することにしました。 旧城の危険老朽住宅の改造を進め、都市の拡大、咸陽歴史文化都市の内包をもっと豊かにするために、シンボル的な都市歴史文化景観を建設しよう、咸陽市の委員会、市政府は各界の人士と大衆の意見を聴き取り、咸陽楼を立て直すことを決定して、2004年10月29日の午前中に定礎式を行い、敷地面積31ムー、建築面積21436平方メートル、高さ51メートル、地下一階、地上八階、コンクリート造りの古建築を建てる予定でありました、総投資額5500万元、工期1年10月、でも、今年までにもう6年が立ちましたのに、未だに未竣工、咸陽楼まだ工事中です、いろいろな原因で、工期も大幅に延長せざるを得なくなった。 |