咸陽東楼

 咸陽東楼2千年余りの歴史を持つ咸陽古都の歴史上の重要な景観地であり、秦代に咸陽楼を建てはじめ、最初は「咸陽東楼」と呼ばれ、漢代と唐代には「咸陽楼」と改名して、現在の咸陽市の明城区の東門外に位置します、北は咸陽城に寄りかかって立つ、南は渭水を見下ろす、古代から関中八景の一つ「咸陽古渡」で多くの文人墨客が訪れ、ここにいろいろな詩を書き残して、そのうち、最も有名な詩は晩唐の進士である許渾が書いた「咸陽城東楼」です:

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一上高城萬里愁。

蒹葭楊柳似汀洲。
溪雲初起日沈閣、

山雨欲来風滿楼。
鳥下綠蕪秦苑夕、

蝉鳴黄葉漢宮秋。
行人莫問当年事、

故国東来渭水流。

一たび高城に上れば萬里愁う。

蒹葭(けんか)楊柳汀洲に似たり。

溪雲初めて起って日は閣に沈み、

山雨来たらんと欲して風は楼に滿つ。

鳥は綠蕪(りょくぶ)に下る

秦苑の夕、

蝉は黄葉に鳴く

漢宮の秋。

行人問う莫れ

当年の事、

故国東のかた来たりて

渭水は東に流る。

宋代まで、咸陽楼は長年修理がされていません、宋仁宗(西暦紀元10341037年)は在位して、北宋の詩人である黄孝先が咸陽県知事に任命され、観景台として咸陽楼を再建して、そして題名を付け、清渭楼と言います、歴史上の黄鶴楼、鸛鶴楼、岳陽楼とは同じように有名でありました。残念ながら、後、破壊されてしまいました。

 1954年、渭河の公路大橋の開通によって、千年の歴史を誇る「咸陽古渡」の舟運は急速に衰え、清渭楼は住宅として保存されて来ました。1992年、国家により歴史文化名城の重点保護部門に指定されて、咸陽政府は碑を立て清渭楼を保護することにしました。

旧城の危険老朽住宅の改造を進め、都市の拡大、咸陽歴史文化都市の内包をもっと豊かにするために、シンボル的な都市歴史文化景観を建設しよう、咸陽市の委員会、市政府は各界の人士と大衆の意見を聴き取り、咸陽楼を立て直すことを決定して、20041029日の午前中に定礎式を行い、敷地面積31ムー、建築面積21436平方メートル、高さ51メートル、地下一階、地上八階、コンクリート造りの古建築を建てる予定でありました、総投資額5500万元、工期110月、でも、今年までにもう6年が立ちましたのに、未だに未竣工、咸陽楼まだ工事中です、いろいろな原因で、工期も大幅に延長せざるを得なくなった。

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